ムラ式減点主義の研究 1
3/6/2026
日本の人が英語や英語教育の話をこれほど好むのは、ほんとは英語を話すようになるかどうかは、どうでもよくて、「なぜ日本は上手く行っていないか」理解したいからなのではないかとおもうことがある。
実際、英語教育の問題には日本社会の、より一般的な問題が端的に表れていて、わかりやすい、という面もあるのかも知れません。
正解主義、という日本社会の足首に頑丈な鉄の輪っかと鎖で繋がっている100kg級の鉄球があるでしょう。
英語が通じるかどうか、その辺でボケーと立っているジモティジモティした雰囲気のガイジンに日本人のきみが「ポケモン博物館には、どう行きますか?」と日本語で尋ねてみて、すんげえ英語なまりの日本語で「エ?ニホンゴ、ニガテデス」と言われた場合、英語で聞き直すことになるが、そこできみの脳内映像としてあらわれるのは「文法的に正しい英語」で、
えええーと、えーと、うーんとうーんと、と本人は気が付かないが、相手の顔を見下したような怖い顔で、しばらく、ウィーンウィーンと考えてから、ご破算で願いましてええわ、という脳内かけ声とともに
How do I get to the Pokémon Museum?
と述べる。
下手をすると、S+VでHowはただのMだから、くらいは考えているかも知れない…いや、まさかね。
あ、あのさ、ガメ、日本で日本人であるおれが、なにが悲しくてガイジンに道を聞かねばならないの?
と考えた、きみ、
きみは甘い
金沢の落雁より甘い
と書いていて突然思い出したが、むかしツイッタで、甘いということの表現として、ガキンチョのころ、金沢の落雁を出されて甘かったのを思い出して
「金沢の落雁より甘い」と書いたら、
「か、金沢の落雁は甘くなんかありませんっ!」と、えらい勢いで怒鳴りつけられたことがあって、あー、びっくりした、なんだいまのは、になったことがあったが、例えですよ例え、こどもわしには甘かったのです。
甘い。
世界への認識がモンキリーなので、
わしなどは、例えばフロレンス、あっ、そーいえばこれも怒られたことがあったね、そういうのを英語人の傲慢だというんだ、と目くじらが立って潮を吹いている人が現れたのだった、フィレンツェ、じゃないといけないんでしたね、その、おフィレンツェの街頭で道に迷ったとき、実際にジモティx2の日本人とおぼしきおばちゃんに迷わず道を聞きました。
なんでって?
もうチョー単純で、アジアの人のほうが道を訊かれたときに、親切に教えてくれるからです。
なぜか、とても嬉しそうに懇切丁寧に教えてくれる。
近ければ、問答無用とばかり「付いてきなさい」と述べて、スタスタと歩いてつれていってくれる。
日本社会は学校でも会社でも「とりあえずやってみる」より「正解を出す」ことのほうが、どうも重視されているらしい。
この社会文化が英語に適用されると、おっそろしい本末転倒が、こともなげな自然さで起きて、英語やってんのに、通じるかどうかより、文法的に正しいかどうかが優先される。
「自然な英語かどうか」なんちゃってるのは、それの派生版で、
ただ「文法的に正しいか」より、自分は自然な英語が判ってるんだと他人にみせてグッチなわたしをするための道具にしか過ぎません。
更に高級にエルメスなわたし、のほうが良ければ、わざとフランス人風に間違えてみせる、という手もありそうな気がするが、あんまり実例を見たことはない。
およそ日本人の悪夢のなかで、最も恐怖イメージに満ちているのは、
失敗することで、というより、もう少し正確に述べれば
「失敗しているところを他人に見られること」で、わっはっはと大笑いした拍子にうんこが洩れてしまったのを他人に目撃されるくらい恥ずかしいとおもうらしい。
日本文化には「間違いを指摘する」というマウンティング行動が広く観察されて、日本の人がたくさんいる場所では、ガイジンが、
誰が誰に間違いを指摘しているかを観察して、群の序列表をつくっています。
というのは、嘘ですけど
真に受けて信じて、もう始まっているという「ガイジン狩り」に出かけてはダメですよ
「ブロークンイングリッシュの時代」というものが、かつてロンドンの夜遊び区域には存在して、これがロンドンの「文明の夜明け」になっていた。
インドの人、フランスの人、シンガポールの人、ウガンダの人、みんな大胆に間違えて、冠詞も三単現も大三元も、いっさい異次元知らんわで、熱烈に大間違い英語を話して、週末のベッドめざして、口説きまくったりしていた。
たいてい、夜明けのフィッシュ&チップス屋で、フィッシュ抜きのチップスを奢ってもらうだけで、終わりですけどね。


