ポストリベラル 1 プロローグ
23/7/2026
「虚言癖のある、極めて幼稚な経済・政治観を持った人物」という高市首相への評価は、残念なことに定着して、対USD163円という数字は、市場の高市首相と、この首相を選んだ日本人への市場からの採点である、ということになっている。
一般的な、他国への評価と、それが市場に反映される時差を考えれば、円安は、上下しながらも、まだ少し進行すると予測されていて、市場で言葉にされている数字は、おおかたは、165円で、高市首相を、しかも高支持率で選んでしまった日本に対して悲観的なひとびとは「200」という数字をすでに口にし始めている。
他国人には理解しがたい中国への、ほとんど「一途な」と表現したくなるほどの敵愾心だけで国がまとまっていて、中国政府から見ても、自分に向けられた突出した敵意と憎悪で、なにしろ隣人なので、喉元に突きつけられた刃で、緊張して対応している。
ユーウツなことに、仕事上必要なので、早く考えを纏めてね、と言われながら、延ばし延ばし、のばしーのばしーのばしー、と古式ゆかしい横泳ぎのように、ゆるゆると、やらないまま延ばしていた「新しいアメリカ」の分析に取りかかった。
政治の話も含んでいて、アホちゃうかこいつら、とか、やっぱピューリタンカルトだのお、と悪態をつきながら、本や数字を読んで、なかには面識がある人も出てきて、へええ、あの人って、こんなこと言ってるんだ、と、知らなくはない人の意外な一面に驚いたりしながら、まだ現在進行中で、海の上で、「新アメリカ」と向き合っています。
パトリック・デニーンとピーター・ティールが、この先、最も重要な役割を果たしそうだ、という初見の感想で、このふたりから始めるかなあ、と、のんびりしたことを考えているが、まあ、いまはまだ、あんまり性急なことは言わないほうがいいのでしょう。
ちょっと面白かったのは、デニーンはプリンストン大学の「知的エリート」然とした雰囲気に、よっぽど腹が立ったようで、このときの感情が思想に強く影響している。
プリンストン大学といえば、わし年長友の哲人どん(哲学者の田村均先生)が客員研究員として居たことがあるはずで、そのうちに、先生の目から見てプリンストンの雰囲気のどういう点がデニーンを腐らせたとおもうか、訊いてみようと思っている。
ポストリベラルについて述べ始める前に、まずリベラルについて述べておかなければならない。
誰でも知っているように「リベラル」という言葉はチョー有名な困りもののテキトー語で、ネット上の議論などでは、それぞれが、てんでに、まったく異なる内容をリベラルとして発言するので、
ネズミはライオンではない!
なんだとお、なんだって、きみは、そんなふうに犬は虎ではないというようなくだらない主張が出来るんだ!
で、大喧嘩していたりして、まるでデースイした酔っ払いがデンマーク語と中国語で喧嘩しているみたいで、どうやって、なにが通じるのか、見ていると、突然、わかり合って、よかったよかったをしていたりして、見ていて、なんのこっちゃ、骨茶はニャノだがバクテーはセット料理なんだよねえ本来、とか、まったくの謎な理解に到達している。
リベラリズムには、頻用度からいうと、まず政治・社会・経済の観点から分けて見ることが出来て、
最も語彙として多用される政治では、つまりは「法の支配」を指している。
大胆すぎるかしら。
言論・信教・結社の自由、権力分立、少数者の権利、多元主義とかは挙げないんですか?
挙げるよね、普通。でも、まあ、いいや。
なにがいいんだか判らないが。
次に多いのが経済的リベラリズムで、
私有財産の許容と自由市場、かな?
そのあとに、ほら、自由貿易とか規制緩和ちゅうものがあって、
小さな政府が良いのだとか、起業と競争を野放しにする市場の形成とかもあって、デスバレー、じゃないや、シリコンバレーとかをイメージすると、いまもんの経済的リベラリズムがイメージとして浮かびやすいが、ここではまだ、それで、それって、リバタリアニズムとどう違うんですか?
とか、恐ろしいことを訊いてはいけません。
イントロは、さらっといけと、ギター教本にも書いてあったでしょう。
社会的リベラリズムになると、話がググッと変わって、リベラリズムは
市場経済は認めるが、国家による再分配と規制も必要だという立場を指している。
能書きだけ「自由」な社会をつくったって、そのまま野放しに競争させると、貧困が生まれ、差別が生じて、実際には自由社会には至らないので国家が介入すべきだ、という立場をとる。
ここに至って、リベラルなんて、アカじゃん、と鼻息荒く述べる人びとが出てきます。
わかんないものは全部「アカ」で左翼、というスカッと爽やかな世界観で、最近では、いいとしこいたおとなのあいだでも流行っていますね。
この三つが基本だが、ここで終わるほど「リベラル」の神様は甘くないのだと言われている。
地域によって「リベラル」の意味するところ/定義は異なるんですね、これが。
ここを明確にしないと議論が古典コミック作者いしいひさいちが描く地底人対最底人の戦いになってしまうので単調と退屈に耐えて、もうちょっとだけ書くと、アメリカではリベラルは「アカ」のことです。
なんちて
怒らない怒らない。
当たり前のことを延々と書くのって、たいへんなんですから。
書いてるうちに飽きてきて、悪ふざけが入ったり、ぐれたりするくらいは我慢してもらわないと困ります。
アメリカではリベラルはLLM風にまとめると
「市場経済を前提としながら、政府による社会保障、経済規制、人権保障を積極的に認める中道左派・進歩派」のことをいう。
オバマじゃん、というなかれ。
オバマだけど。
いまのアメリカでは古典的リベラルが保守主義やリバタリアンと呼ばれるおおきな傾向があって、リベラルという語彙だけが中道左派/左派へ引っ越してしまうという、ややこしいことになっている。
実はですね。
このややこしさが生まれた事情に後のポストリベラルが生まれた理由があり、ややこしくならざるをえなかったことには保守・リベラルという観測角度が既に無効になっている、という深刻な背景があるが、これはおいおい述べていきます。
これが欧州になると意味がガラッと変わるのは、簡単にいえば欧州では歴史的に共産主義がマジもんの政治勢力として存在したからで、欧州と似た政治環境にあった戦後日本人には判りやすいというか、再びLLM風に要約すると
「保守政党と社会民主主義政党の中間に位置し、市民的自由、市場経済、欧州統合、法の支配を重視する政治潮流」のことを「リベラリズム」と呼びます。
えっ?
あれ?
「保守政党と共産主義のあいだにある」んじゃないんですか?と思った、そこの、きみ。
60年代の生まれですか?
それとも50年代だろうか。
欧州リベラルは政治潮流の変化、特にベルリンの壁崩壊後の変化によって、軸が動いて来ちゃってるんですね。
冷戦時代を知っている世代の感覚からすると、いまの欧州リベラルは、むかしのリベラルより、ずっと右寄りです。
右曲がりのダンディー一条まさとは、いまは真っ直ぐな真人間なのだと言われている。
欧州のなかでもイギリスはまた特殊で、第一、テキトー総本家ぶりを発揮して日常会話で使う「リベラル」と論文や新聞記事の「リベラル」が歴然と異なる意味で使われる習慣で、ええかげんにせえよ、な、お国柄だが、これも、おいおい、続き物が続く、あとあと説明いたしまする。
ほんとかよ、おいおい。
書いているうちに、日本のリベラルもLLM風にまとめてみたくなったが
「立憲主義、現行憲法、平和主義、基本的人権、少数者保護、多様性、一定の社会保障を重視する中道左派」ということになるだろーか。
と書いているが実はこの括弧のなかの「日本リベラルの定義」はLLM風なのではなくて、実際にLLMに書かせてみました。
ははは、ごめん。
日本のリベラルは「現行平和憲法擁護主義」とまとめてもいいくらいだと、わしは思ってます。
「法治主義」と言ってもよい。
憲法と法律への信頼がすべて。
立憲民主党の綱領は、国民主権、基本的人権、平和主義、権力を憲法によって拘束する立憲主義、差別の撤廃、ジェンダー平等を掲げているが、これは立民党がもともと「日本リベラルイメージの政党化」だからでしょう。
このほかにもオーストラリアのリベラルは日本で言えば中道右派で、もともとリベラルという概念を持たないニュージーランドでは、ゆいいつのリベラル政党であるACTが、人種差別主義政党で多くの国民からはナチに最も近いと思われているという一見特殊な事情があります。
「一見」と述べたのはオーストラリアの白人とアボリジニ、アメリカの白人とネイティブアメリカンの関係とはおおきく異なって先住民のマオリの社会的地位が高いNZでは普遍的な個人権利を強調することがマオリの固有の権利を迫害することにつながって西欧的な自由社会の概念がマオリの伝統文化と真っ向から対立するという、考えてみればリベラリズムの本質的な問題が露見しているからで、書いている本人わしには興味があるが、日本語で書くことには、あんまり意味がなさそうなので、続き物の終わりの方で触れるかどうか山田美妙であると思われる。
というわけで、ポストリベラルという現代最大の政治思潮にとりかかる前の下準備は。このあたりで、終わりです。
次回からはいまの世界に生きる人間全員におおきな、直接の影響がある極めて重大な思想としての「ポストリベラリズム」について書いていきまする。
では


続編、楽しみにしています。
「リベラル」の意味が国によってこんなに違うとは😵💫!です。
>最も語彙として多用される政治では、つまりは「法の支配」を指している。
なるほど。日本でリベラルという言葉が定着しなかった訳だと印象を受けた。
法に触れなければなんでもして良い。
法の内容もどんどん書き換えたり、場合によっては解釈の変更だけでも良くなっていくのもその延長線上かな。
裁判で有罪と判定されなければ有罪ではない=法を侵した事にもならない、とかも。
自民党自身が「自由」も「民主」も否定し続けた最前線に居座り続けた理由にも直結してそう。