日本にやってくる移民の、おおきな特徴は、
「日本が好きだから」日本にやってきた人が圧倒的に多いことで、
収入やキャリアのためにexpatとして英語国にやってくるひとびととはおおきく異なる。
まず第一に英語社会でない点で、日本にいればいるほど、日本と運命を共にするしかなくなって、下手をすると、キャリア自体がそこで終わりになってしまう。
英語国で仕事をすることが、CV上のプラスになるのに較べて、日本に見切りをつけて日本から他国へ、気を変えて、移住先を変えるとなると、一からやりなおしで、英語人の場合は、多く、罠に落ちた獲物gameで、人生はそこが終点になることが多いようです。
余計なことを言うとイギリスからニュージーランドに行くというのも、傍からみると、なんだかヤケクソみたいな選択で、通常の地道な仕事、ヘアドレッサーや左官、電気工事士のような仕事で収入半減、シティの生活にうんざりしてNZに家族ごと移住してきた友だちに至っては年収5分の1で、移住の性格として、収入よりも生活環境を求めた、というところが、やや日本への移住と似ている。
Sakura Trapと名付けた人がいたのをおぼえている。
音楽のスタイルのことではありません。
少し前だと、日本に英会話講師としてやってくる人は多かった。
NOVAという英会話学校が「高卒以上の講師は雇いません」という不思議な求人条件で、あちこちの英語国で大規模に募集を始めて、
英会話授業の大安売りを始めて、その結果、英会話学校自体が日本社会で信用を失うまで、日本の人の「英会話学習熱」は盛んで、もうひとつは、90年代前半くらいまでは、日本はビザにうるさくないことで有名で、
某英会話学校などは、(観光ビザが切れる)3ヶ月ごとに講師をタイランドのプーケ・ビーチに送り込んで、一ヶ月遊ばせて、また再入国させて、再雇用する、という講師の側にも、なかなか評判がよい制度を採用していたくらいで、仕事上のburnoutや失恋で困憊して、療養のために「しばらく遊んで暮らす」には、そのころから、日本はよい国だったようです。
ところが人間なので、恋に落ちる。
ボーイフレンドやガールフレンドが出来て、日本に定着して暮らそうと考えるようになる。
あるいは最近おおい例のように、アニメやマンガをきっかけにして、日本に何度かやってきて、物価は安いし、夜中に、ゴーゴーゴー!で遊び歩いても、危ない通りはないしで、第一、日本の人は礼儀正しくてやさしいので、すっかり気に入って、よおし、ここは乾坤一擲、住んでみっか!になって、
日本に定住しようと決心する。
そういう人たちなので、打算がうまく働かない、頭のなかにマネー電卓が存在しない人がおおい。
自分が直接知っている例で言うと、母国イギリスで日本の男の人と恋に落ちて、結婚して日本にやってきたが、国際結婚は難しいものだ、という定石に従って離婚して、母国に帰ろうとおもったら、経済水準、なかでも収入と物価がおおきくかけ離れてしまって、帰ろうにも帰れなくなってしまった、なんていう例もあります。
この人は、途方に暮れたまま、日本で細々と在日英語人向けの記者として収入を得て暮らしています。
うまく行っている例もある。
この人は割り切りがいい人で、バーで、ふざけて、
「どうして日本の男と結婚したの?」と聞いたら、
「自分の国じゃ、大学も行かなかったわたしなんか、ウエイトレスくらいしか仕事がなくて、せいぜい店のマネージャーよ。日本ではガイジンで、チャンスがいっぱいある!」と述べて、面食らわせたが、しかしまあ、サバイバル戦略としては、悪い考えではないのかも知れません。
いまは芸能ビジネス世界の人と結婚して、子供が3人いて、幸福に暮らしてます。
だいたいにおいて、日本に住む人には、日本と日本人が気に入って、
ある程度自分の職業的将来を諦めて、日本文化に寄り添って生きていこうと決意した人がおおい。
自然、気がやさしくて、理解力がある、つまり思いやりに富んだ人がおおいのでもある。
だから、日本の人は移民、というか、やってくる移民の人間性については、他国に比して、たいへんラッキーだとおもう。
以前、日本からやってきた年長友のお供でマンハッタンを歩いていたら、
通りをイラク人たちのデモがやってきて、
「ブッシュに死を!」
「アメリカに死を!」
とラウドスピーカーで連呼しながら行進しているので、年長友が、ぶっくらこいていたことがある。
「アメリカって、移民が、あんなこと言って練り歩いても、大丈夫なんだね」と言う。
そりゃ、そうですよ、ああいうことが出来る国で、収入も高いからやってきたんだもの、と応えて、おかしなことを言う人だとおもったが、
言われてみれば、ユダヤ人の単なるお祝いのパレードに対しては、大声で悪罵を浴びせるひとたちがいた上にレンガを投げつけた人がいて、運が悪いユダヤ人のおっちゃんの額にあたって、システムが支える寛容と、社会のそれとは別の部分に潜む文化からくる非寛容が、アメリカ社会には共存していることに思い当たったりした。
日本の人は、「移民は自国が好きだからやってくる」と頭から信じ込んでいるところがあるのは、文化の親和性が高い日本へやってくる移民の特殊性のせいだとおもうが、これは怖いことでもあって、好きでやってくる移民は、嫌いになればいなくなる。
残るのは「日本というキャリア上の流砂にはまってしまった」外国人だけということになる。
参政党が唱える「日本ファースト」などは、現実の、ほかの先進国に較べて圧倒的に少ない移民の数と、ほとんどゼロ、といいたくなるくらいの数の受け入れた難民の数を考えれば、ありもしない現実に対して「ぼくが考えた愛国」を演じてみせる「予防的外国憎悪」とでも呼ぶべき奇妙なものだが、そんなに心配しなくても、文化に惹かれてやってくる移民なんて、たいした数になるわけはないので、空が落ちてくると心配して夜も眠れなくなった杞の人とおなじことで、実際には日本を圧倒する移民の大軍団などは望んでも現れはしなさそうです。
そもそもなぜ、もとからあれほど嫌がっていた移民を渋々受け入れるに至ったかを考えると、「働く人が足りない」という切実な欲求からだったはずで、そっちは、政策として空から日本人の顔と姿で空から降ってくることになっているようだが、そんなことは起きるのか?
チームみらいと再び合体してロボットとAIを急造して社会を回します、という、頭が悪い学生のようなことを、まさか考えているわけではないでしょう。
つまり、翻訳すると、「自滅を覚悟して日本人だけが並んだ美しい国をつくりましょう」と述べて、それが国民に支持されているわけで、そんな方針で国が亡びなかったら、そっちのほうが世界の椿事としてニュースになってしまう。
現今の排外主義は、アベノミクスに次いで、日本人が自分の顔面に対して繰り出した第二のノックアウトパンチで、ほんとうは世紀のオバカ政策アベノミクスからの復活にすべての集中力を注ぎ込むはずだったのに、安倍晋三でさえ第一次安倍内閣でやってみて、あまりの不人気で諦めた、ネット右派政策をもちだして、このたびは、国民の喝采を浴びることになっている。
友だちの家のおとーさんとおかーさんが発狂したからといって、友だちに意見しても仕方がないので、もうこのくらいでやめておくが、
考えるためのヒントはふたつある。
ひとつはフランコによる1950年代に始まる、バルセロナのスペイン化政策(castellanización)で、スペイン化されることを頑なに拒むカタロニア人をスペイン化するために、
バルセロナに50万人、カタルーニャ全体で100万人という数の移民を送り込んで一挙にスペイン化してしまおうという計画を立てます。
移民の出身地は、フランコ自身の故郷ガリシアを初めとして、アンダルシア、エストレマドゥーラ、ムルシア、カスティーリャ=ラ・マンチャ、カスティーリャ・イ・レオンなどの「最もスペイン的な」地域に限定した。
移民の大波でカタルーニャの文化を押し流してしまおう、というフランコの「名案」は、しかし、意外な結末を迎えて、なんと、送り込んだ大量の移民のことごとくが「カタロニア化」してしまう。
カタルーニャの文化のほうが、スペイン文化よりも質が高く魅力的であったからで、文化の力というものが、いかに強力か、世界に見せつけて、このフランコ一世一代の国家戦略は失敗に終わります。
もうひとつは、参政党の神谷党首と石田茂首相の国会質疑の応答で、主張よりなにより、残念ながら神谷党首は、おとなとしての体をなしていない幼稚さで、到底、国会での質疑応答の体裁を成さなかった。
他国の指導者に阿諛追従して愛国主義を示せという、気の荒い人なら「売国奴め!」の一言で断じそうな、訳のわからない主張もさることながら、
政治家というものは、積み上げた人間性が、まずすべてに優先する条件なのだということを、石破茂は、ただあの場所に立って、訥々とオバカ質問に答えることによって示して、日本の多くの人に、ネットに酔った自分たちが、なにを忘れていたかを思い出させた。
その聡明で感受性が豊かな国民としての日本人の認識は、8月6日の、
「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」
歌人正田篠枝が自らの生命を賭して詠んだ歌を二度繰り返す石破茂首相の姿を見ることで、有無をいわせないものになったのが、こんなに遠くから眺めていても、はっきりと判りました。
前三代の、びっくりするほどケーハクな、いやいや宿題をやらされる「やってみせるかっこうだけはソツがない」要領だけの小学生のような、薄ぺらさとはあまりに異なっていて、びっくりした。
良い材料などは、なにもないが、日本はやっぱり大丈夫なのではないかと考えて、午後を過ごした。
日本の復活は、意外な端緒で、すでに始まったのかも知れません。
>良い材料などは、なにもないが
一昨日の伊勢崎賢治との国会質疑や昨日の首相の姿を見て、「これが本来は普通の政治家の振舞いであって、これまでが異常だった」ということをかなり多くの人が再認識した、ということに仄かな光を感じます。
オウンゴールより強烈😅
イタタタタ
「現今の排外主義は、アベノミクスに次いで、日本人が自分の顔面に対して繰り出した第二のノックアウトパンチ」
その痛みに気づかないバカナヒト族が大勢いて怖い😨です。