恐ろしいものを見た
もともとの意図としては、AIの「言語センスの欠如」を見せるために、
T.S.EliotのThe Love Song of J. Alfred Prufrockを材料にして、最もAIとの違いがわかりやすそうな、上田保、西脇順三郎の訳と対置してみせようと考えて、ChatGPT訳と、みっつを並べて、なぜそうなるのかを説明すればいいのではないか、というアイデアだった。
西脇順三郎を知らない、読んだことがないという人は、まさかいないだろうが、上田保は、知らない人がいるかも知れない。
鮎川信夫や田村隆一たち「荒地」の同人は、同人誌名ですでに察しがつくように、T.S.Eliotの詩を読みふけることで戦後の自分たちの思想の出発としたが、あとで自嘲的に述べているように、実は英語の原詩は手に余って、
全員が上田保訳のT.S.Eliotに依存していた。
上田保という人は非常にすぐれた翻訳者で、すぐれた翻訳者の常として、日本語として体裁をなしうる限りの、ぎりぎりの直訳に近い日本語文体を採用して、「生硬(きっこう)だ」「受験生の英文和訳だ」と、言語についてあんまり深く考えたことがない凡百の翻訳家や英文学者に言われ続けたが、田村隆一や鮎川信夫たち、当時の第一流の詩人の目をごまかすわけにはいかなかった。
田村隆一の詩には、ところどころ、ダイレクトな「上田保語」の影響が見られるが、それはまた田村隆一について別稿を立てて書くときに説明したほうがよい。
あんまり文学史の表面には出てこないようだが、当時の日本の作家たちは、戦後の日本語のおおきな変化に戸惑って、「右往左往」という表現がぴったりな混乱のなかにあった。
1946年に内閣告示で「現代仮名遣い」が布告されて、お上(かみ)に従順な国民性を発揮して、新聞社出版社以下、いっせいに新仮名遣いに日本語は衣替えするが、そんなことには、お構いなしで、悠々と仮名遣いも旧仮名遣いで、美しい日本語を書いていったのは、大御所谷崎潤一郎やむっつりヘム顔の世を拗ねた内田百閒たち極く少数の作家で、なんだか着物を無体に裁断して、膝の上でバッサリ切って「ミニ」に仕立ててしまったような、あられもない新仮名遣いと新字体、カジュアルに砕けた口語に、なすすべがなかった作家たちは、どうすれば新しい日本語が体をなすのか手本を求めて、刊行された本のあちこちに出かけて、出口のドアを探したが、そのひとつが現代詩で、その結果、大江健三郎などでさえ、あの文体なのに、「荒地」同人の日本語の影響がおおきかったことを述べている。
実際、観念が高い、励起された日本語の手本として田村隆一や三好豊一郎の「荒地」同人の詩は、まっさきに思い浮かぶ。
その祖流が、上田保の日本語です。
さて、とにかく、やってみる。
原詩:
I have heard the mermaids singing, each to each.
I do not think that they will sing to me.
...
Till human voices wake us, and we drown.
上田訳:
人魚たちがたがいに歌うのを聞いた、
ぼくには歌ってくれそうもない。
...
人間の声がぼくらを呼びさまし、
ぼくらは――溺れるのだ。
西脇訳:
人魚たちはたがひに歌ってゐる、
しかしわたしに歌ふとは思へない。
...
人間の声がわれわれを目ざまし、
われわれはおぼれてしまふ。
ChatGPT訳:
人魚たちの歌が聞こえる、たがいに歌い合っている。
――でも、ぼくに歌ってくれるとは思えない。
...
人間の声がぼくらを目覚めさせ、
ぼくらは――溺れてしまう。
西脇順三郎の訳には戦後の新仮名遣い版もあって、
それには、最後の有名な一行は
「そして、おれたちは溺れる」
になっていたはずで、原詩の英語を再現した日本語として、最もしっくりくるが、上のみっつを見て、どう感じるだろうか?
ここにも、もう、日本語特有の「主語の問題」が現れていて、
日本語人ならば、普段の会話の主語は「わたし」か「ぼく」であるはずのプルーフロックだが、内心の吐露である、この詩の主語は「おれ」であるほうが話の平仄が合っている。
読んでるほうは、勝手にそう思うが、三者拮抗していて、いつからそんなに日本語が上手くなったんだ、おい、とChatGPTに呼びかけたくなる。
DeepLも顔色なし。
冒頭に駆け戻る。
原文:
Let us go then, you and I,
When the evening is spread out against the sky
Like a patient etherized upon a table;
ChatGPT訳:
さあ、行こう、君と僕とで、
夕暮れが空に広がるとき、
まるで手術台の上に横たわる、麻酔をかけられた患者のように。
上田保訳(1959):
さあ行こう、君とぼくと、
夕暮れが空に広がる時に、
ちょうど手術台の上で麻酔をかけられた患者のように。
西脇順三郎訳(1932):
さあ行かう、きみとぼくと、
夕ぐれが空にひろがるとき
ちやうど麻酔された病人のやうに、手術臺にねかされた。
明らかに、「まるで」は良い語彙の選択ではない。
same, similar, likeの差異について、学校の教室などで日本のひとたちは教わっていて、それに引きずられているのかも知れない。
上田保の「時に」もよくない。
原詩を見れば、最も対応可能な日本語の表現は「とき」「時」で、
「に」が付いてしまっては、話が変わってしまう。
しかし、それらを除けば、三者またしても、すぐれた訳で、
いったいどうなってんだ、と考える。
昨日の夜、AIについて、突如、大量の注文がガメ・オベールから舞い込んで、
Amazon.comやBook Depositoryの神様は、ぶっくらこいたのではないかと思うが、その衝動買いは、この一撃によるものなので、悪しからず。
ついでなので、記事の折々に顔を出す、「閉じたフォーラム」のAI部会名簿にも、登録しておいた。
理屈っぽいエラソー専門バカが多いから嫌いなんだけど、あの部屋。
もうひとつ、事前に、この部分の翻訳はAIは絶対に崩壊する、という確信があった、例の”Do I dare?”の節も掲げておく
原文:
And indeed there will be time
To wonder, “Do I dare?” and, “Do I dare?”
Time to turn back and descend the stair,
With a bald spot in the middle of my hair...
ChatGPT訳(抜粋):
「勇気はあるか? 本当にあるか?」と
自問する時間。
階段を引き返し、降りていく時間、
髪の真ん中が薄くなったまま――
上田訳(抜粋):
「ぼくにできるか? ぼくにできるか?」と
ためらう時間。
引き返して、階段を下りる時間。
頭のてっぺんが禿げている――
西脇訳(抜粋):
「やれるか? やれるか?」と
思い悩む時間、
引き返して階段をおりる時間、
頭の中央に禿のあるまま――
西脇先生の
「やれるか? やれるか?」の大胆さには、びっくりで、
せんせー、先生みたいな都会のセンセイのお気持ちはわかりやすが、
わたしらみたいな在のもんには、つれえです。
せめて「やれるか? やれるのか?」くらいじゃダメですか、とおもうが、
ジュン・ジャビロに勝てる日本語の神様はいないので、やむを得ない。
最後の
With a bald spot in the middle of my hair...
の訳は、みっつ、どれもダメだが、これは多分日本語に訳すことは、そもそも不可能な「感触」で、酷なことを言ってはいけない。
これ以上、わしが感じた「ガビン」を感じたい人は、プロンプトで目的を詳らかに述べて、ChatGPTさんに著作権関連の心配をしないですむように言えば、ちゃんと全文、訳してくれるから、各自、自分でやってみるといい。
恐るべき実力です。
わしより日本語上手やん、とおもうひとがいるのは確実。
ここからは音量を下げて、もっと怖いことを書くと、
実はAIの恐ろしさ、人間が知らずに持っている思い込みをAIが、しれっとシカトしてしまう未来の兆候は、チョー有名な初めのトスカナ語の訳にあるかも知れない。
そうです。あの、
S’io credesse che mia risposta fosse
A persona che mai tornasse al mondo,
Questa fiamma staria senza piu scosse.
Ma percioche giammai di questo fondo
Non torno vivo alcun, s’i’odo il vero,
Senza tema d’infamia ti rispondo.
という、賢い高校生が、苦労して読んで、まるで砂漠で発見した異星人の言葉を解読したような感動に浸る、
ダンテの「神曲」地獄篇第27歌(Inferno, Canto XXVII)からの引用です。
もしもこの答えが、
二度とこの世に戻らぬ者に届くと知っていたならば、
この炎は静かに揺れるのをやめただろう。
だが真実を聞くかぎり、
この深みから生きて還った者はひとりもいない。
だから私は、恥を恐れずに答える。
カジュアルに訳してあるが、「我と我が帰らぬひとの…」調ではない、軽い口語で、この部分を日本語に訳そうとする試みを初めて見た。
当然のようにこの文体を選択していることに「見識」を感じた。
神曲のなかでなら、この詐欺師グイド・ダ・モンテフェルトロの科白は、この調子で訳されることに必然性があるが、この詩の冒頭部分は、
Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate、
地獄門の扁額とおなじ調子で訳されているものしか見たことはなくて、
そもそも、この扁額の最後の一行からして、主語が「汝」で
「汝ら、ここに入る者、あらゆる希望を捨てよ」
という「汝」訳が定着している。
カッコイイもんね、だって。
英語から日本語への翻訳の難しさは、基本的に、
1対3、1対多数の写像が存在しないことと関係している。
冗談ではなく、マジメに言っているので、写像として成り立たない、まさにその理由によって英語から日本語への翻訳は、すでにその点で広義の、しかし本質的な意味での「誤訳」になることが運命づけられている。
文学であれば、当然に、その上に、本質はやはり多値写像だが、多値どころではない、語尾の「ですます」「だ」「なの」の問題があり、いま「当然に」と書いたが、助詞の問題がある。
「当然」と「当然に」では、当たり前だが、意味がおなじだけで、別々のものを指している。
1対多値の不正写像の問題なので、当然、集合論的な多値写像(multi-valued function)として扱うほかはなくて、関数的にはあつかえず、「関係」としてしか扱えない。
これが英仏翻訳と異なる英日翻訳の難しさの本質で、まさか、いまの原始的段階のAIが、それを扱えるとはおもわなかった。
当初、考えていたより、急速に「AIが人間性そのものを呑み込んでしまう」問題は深刻化しているので、
大嫌いなオベンキョーを始めたところです。
新しい世界は、オベンキョーと一緒にやってくるところがよくない。
是非、反省を迫りたいとおもってます。
三人称単数現在、ってコンピュータの正規表現もnon-greedy,非欲張り演算子なんて、教科書を投げつけてしまった訳があるんだけど、thatとかで「(物体の詳細への参照が)も、戻ってくるのかよ」で、そこまではパズルみたいで理解ができたが、極めつけはhave beenなんつって「日本語にはない概念です」と、変換は無意味です、aとtheがどうだ、で投げてしまった。英語は苦手です。日本語も苦手だけどな。中学生に「なぜ」を説明してくれる人はいなくて、使わない、ただ説明するだけに教科書にでっち上げられたお話に興味を持つはずもなく、テストの前に一夜漬けするのが常でした。英語の教科書は後ろの辞書だけ引きちぎって、文法やテスト毎の例文範囲は別にまとめて、国語便覧のように、自分の知らない世界へのうっとりするような敬意とは違い、何となく憎いような気持ちを感じてたと思う。
だからね、楽しいんだガメさんの言語の話は。分かんねーよ、テストがあれば落第だけどさ、ドキドキしてしまう。ベンキョー、したいな。処理する楽しさじゃなく、分かんないことが拓ける、拓かれてない未整理の山を目の前にした時の歓喜を思い出す。
休日が終わるのを残念に思います。今朝この記事を読めてよかった。また書いてね、楽しみに待ってます。
> 1対多値の不正写像の問題なので、当然、集合論的な多値写像(multi-valued function)として扱うほかはなくて、関数的にはあつかえず、「関係」としてしか扱えない。
> これが英仏翻訳と異なる英日翻訳の難しさの本質で、まさか、いまの原始的段階のAIが、それを扱えるとはおもわなかった。
言われてみれば全くその通りだ。
日本語翻訳は、だから、最終的に翻訳者自身という関数を通して、一意の値を出力するしかないのね。でもGPT、自分で詩を書かせると、まるでひどいんだ。一体どういう頭の中身をしてるんだろーか。
>With a bald spot in the middle of my hair...
本筋じゃないけど、僕はこういうのが「くぅ〜英語!」って思って、すごく面白いというか、信じられないほどうまいチーズを食べた時みたいな「旨味」を感じて好き。