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日本の「外国人問題」の特徴は、それが、こういうと「そんなことはない!」と憤慨するひとが飛んできそうだが、
「ありもしない問題」であることで、現実には存在しない脅威について口角泡を飛ばして議論しているところが、ちょっとトランプのアメリカと似ている。
何度も書いたが、1990年代のオーストラリア・ニュージーランドの「アジア人移民問題」は、NZでは「このままの勢いで日本人が増えるとニュージーランドは日本人の洪水に呑まれて、日本文化の国になってしまう。ニュージーランドが日本のような国になってしまったら、どうするつもりか」という言葉の流布によって起こった。
南島の中心都市クライストチャーチは当時、カテドラルで象徴されるように、極めて欧州的な街で、ウェリントンから始まって、オークランドでも進んでいた多文化社会化からは距離をおいて、白人たちの、それも三世代はむかしのままの秩序で成り立っている街だった。
街のひとたちは、いまから考えると非現実的なくらい礼儀正しく、
例えば、子供たちが横断歩道を渡るのに、クルマを止めると、
明るい屈託のない声で、「ありがとう!」と口々に叫んで渡っていく。
女の人と狭いところで鉢合わせすると、壁に貼り付いてでも女のひとが、堂々と通れる空間をつくる。
住宅地では、夜寝る前に鍵をかける家のほうが少なくて、その当時のことだからちゃんとした統計はないが、白人地区では、犯罪は、ぎょっとするほど少なかっただろうと思います。
犯罪といえば、貧しい有色人地区から来る空き巣狙いのコソ泥しか存在しない、と、みなが普通に考えていた。
いまの世界から来れば、「これは人種差別」「あれは白人至上主義」と指摘するのは簡単だが、よっぽど貧窮しなければマオリ人やポリネシア人、東アジア人に立ち交じって暮らす必要はなかったので、普通の人間にとっては、大使館や多国籍展開をする大企業のオフィスが多いウェリントンと異なって、そもそも差別すべき対象の有色人が視界に存在しなかった。
初めに現れたアジア人が、日本の人たちで、日本国内でどういう報道になっていたのか、ニュージーランドを好きになってくれるひとたちが多くて、子供の留学先に選んだり、本人たちが、日本で成功したあと、大金とともに移住してくる人たちも多かった。
いまから思い返してみると、事実だったかどうか怪しいと感じるが、そのころの地方テレビ番組の「調査報道」ではクライストチャーチの出身国別移民グループで、イギリス人を抑えて、日本人が1位になっていたのをおぼえている。
両親の仕事の都合で日本に住んでいたことがある子供の目には、当時のニュージーランド人たちの日本人への恐怖心は異常で、「ジャポンヘッド」という英語の語感からしたら、ひどく嫌な感じのする呼び方で呼ばれていた、日本からの移民のひとたちが多く住むエイボンヘッドから溢れだすように、フェンダルトンやカシミアヒルの高級住宅地に家を買って住み始めると、
クライストチャーチ人たちの日本人の「侵略」に対する恐怖心は頂点に達して、このエネルギーが、やがて「ニュージーランド・ファースト」という、
「ニュージーランド人の生活を優先します」という、愚かな人間たちの無知からくる恐怖心に付け込んだ、なんだかチャラい、外国人への嫌悪の煽動に基づいた雰囲気だけのオバカ政策を殆どゆいいつの政策とする政党を生み出すことになる。
「勝つ」ことに特化された人間たちを、日本語ブログを始めた十数年前から「ゲーマー族」と呼ぶことにしているが、バカなひとを、最近は、バカナヒト族、と呼んでいる。
バカナヒト族の手中に落ちた大衆民主主義ほど、アホらしくも恐ろしいものはなくて、すさまじい数で増殖して、ニュージーランドを呑む込むとおとなたちの誰もが信じ込まされていた日本人移民が、では、どのくらいの数でクライストチャーチに住んでいたかというと、500人で、クライストチャーチは農産物の集積地としての性格を反映して、街区に住む人間の人口は小さめで30万人にしか過ぎないとは言っても、それにしても、
たった500人の日本人がいるための、あの大騒ぎだったと考えると、文明が成立したあとも、古代ギリシャから連綿と続く「異なる人間」への恐怖心の強さで曇った目には、ほんの一握りの「よそもの」が自分たちの生活の場を呑み込むほどの大群に見えたわけで、遠因は恐怖心であるとしても、そこから出た悪意が認識を捩じ曲げる力の強さをまざまざと見る思いがする。
どんな理由で、あんなことになったかと、いまから30年前に起きたことを振り返って考えると、
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当時は日本側に「ニュージーランド観光ブーム」があったらしく、バスツアーで、おおぜいの観光客がいて、老人、低教育層、あるいは端的に述べて、自分の一生と現在の生活に不満があるひとたちといった環境変化への適応力がないグループのひとびとが、潜在的に、もともと探していた敵意ターゲットに日本人がすっぽりあてはまった。
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やはり日本側で、高校への留学先として「安全でフレンドリーな」ニュージーランドを選ぶ家庭が多く存在して、後で社会的問題になった日本の留学先斡旋業者が、地方の隅々にまで日本人生徒をばらまいた結果、
「どの学校にも日本人生徒がいる」状態になって、
親たちが、「マナーが悪く、言葉もろくに話せない日本人の子供たち」の存在が子供の教育によくないと焦りだして、「日本人がコミュニティ内にいると、自分たちの生活が破壊される」という思いが共有されていった。
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90年代のニュージーランド人の平均年収は、日本人の半分以下で、
オーストラリアでもニュージーランドでも日本に出稼ぎに行く若い人が多かったころです。
「なぜカネモチの日本人のために、自分たちの税金で教育や医療のサービスを提供しなければならないのか」という、「やっかみ」乃至は嫉妬からくる日本人への敵意が広がっていた。
告白すると、日本に住んで、楽しい良い思い出ばかりで、よく級友から「日本びいき」と悪意で揶揄われていたガキわしにしても、そのころは、ニュージーランドにいる日本の人に良い印象はなくて、なぜそういうことをするのか判らない、と考える機会が多かった。
フェンダルトンの「町の家」の近所に、日本からの「留学生」の、どうだろう、いま考えると20代前半だっただろうか、日本人の若い男の人が豪邸と呼んでいい家にひとりで住んでいて、留学生であるはずなのに、一向に学校にも出かけず、ポルシェを乗り回して、毎日遊んで暮らしていて、
決定的だったのは、通りを隔てた向かいの家の高校生になる娘に、「ちょっかい」をだして、高校生の女の子としては興味津々、好奇心バリバリだったらしい家のなかを見に来ないかと誘って、いざ女の子が家のなかに招じいれられると、なにを誤解したのか、やおら抱きついて、無理矢理キスをして、押し倒しにかかって、女の子は、頭突きを一発かましたあとに、隙をついて、家に逃げ帰る、ということがあって、わし家の近隣でも、日本人の評判は具体性を帯びて一気に悪くなった。
日本人の留学生のなかには、素行が悪い人が多かったのは事実で、国営のTV1で
「ニュージーランドに出来の悪い息子や娘を捨てる日本の親たち」という特集番組があったのをおぼえている。
そうおもってみれば、世界は、おもったようにしか見えないもので、そのころのニュースに出てくる日本人といえば、オークランドの日本からやってきて、いまでもある新興宗教から脱けようとして、本部の命令で追跡していたらしい他の信者達からナイフで刺されて殺される人がいてニュースになったり、
第一、日本の人にとっては、あんまり名誉ではないことに、日本からの観光客の数はめっきり減っているのに最近も一年に一回程度はあるが、ウエイトレスの胸を突然わしづかみにして警察に緊急逮捕される老人や、
AirNZのCAのお尻を触って、空港に着くなり拘禁される中年の人が、そのころは頻々とニューズになっていて、隣家のおばちゃんなどは、高校生の娘ふたりに、
「日本人に近づいてはいけません。礼儀正しくはすべきだが、絶対に相手にしてはいけない」と申し渡す始末で、日本の人の印象は、戦時中の日本兵さながらのものになっていった。
やがて偏見が解消されて、日本の人も自分たちとおなじ人間だ、めでたしめでたしということになったかいうと、現実は常に凡庸で退屈なもので、
日本の人の悪評が次第になくなったのは、簡単に言って、日本の人がビンボになって、留学生も観光客も激減したからです。
オークランドには親会社が「食べて応援」で、日本で買ってもらえない福島・東北産品を大量に一括契約で購買して、ニュージーランドとオーストラリアに住まう日本人を中心とした日本食愛好家のひとびとに大量販売して、生産者も自分も利益があがる、win-winビジネスをやっている会社があるが、ここのオークランドのアンザック・アベニューにある、この会社が直営のスーパーマーケットには、90年代にはマンガ貸本コーナーがあって、棚の前にずらりと並んで立ち読みする日本留学生の姿が地元の名物になっていたが、やがて、商売に機敏なこの会社の経営者は、留学生の数が減ると、折からの日本食ブームのほうに乗り換えて、あちこちに出来た日本食料品を扱う店やレストランへの卸しビジネスに切り替えて、いまでも巧くおおきな利益をあげるようになっていく。
あんまりよくない噂があったニュージーランドで最もおおきい留学生斡旋業者は倒産して、日本人相手の不動産業者も店を閉じて、多分、いまは一軒も残っていないはずです。
オーストラリアとニュージーランドの人間達を羨ましがらせた、「日本の高い年金」で悠々自適の退職生活を楽しんでいたひとたちも、大半は日本の国力の衰退とともに帰国せざるを得なくなった。
OKショップを経営していた、というか、「税金対策で海外に店を開いているのだろう」と英語人のあいだでは専らの噂になっていた殖財上手の日本人タレント大橋巨泉は、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、にチェーンのギフト店を展開していたが、不動産投資も上手い人だったらしく、
いまでは当時の十倍近い価格になっている住宅を、ニュージーランドの方々に持っていた。
この人が亡くなったのは2016年で、この人が亡くなったことが「日本人のNZ侵略の終わりの象徴」のように扱われているタブロイドを目にしたりしたが、実際には、2000年くらいには、わし実感としては、日本の人は姿を消していて、街の格安航空チケット店のウインドウから東京が姿を消してヨハネスブルクに変わり、日本の人を見なくなったなあ、とおもっていたら、今度は、「安い安い」を連発する若いひとびとを中心に、逆に日本を訪問するニュージーランド人が増えていった。
たった500人の日本人住人に大騒ぎして、「日本人は、脳の構造がすでに性犯罪者と一致していると科学的に証明されている。生物種的に危険な人間達なので入国を許可すべきでない」とまで言い出す人間が現れた、ニュージーランド社会のみっともなさは、最近の日本語で言う「黒歴史」で、みっともないったらありゃしないが、初めからアジアのひとたちがたくさん教室にも職場にもいる環境で育った若い世代は、もちろん別で、わしガキのころのニュージーランドと較べて、ニュージーランドで最も好きな変化は、アジア系生徒と欧州系生徒が、同じ制服を着て、連れだって家に帰る姿で、むかしは異人種間の恋愛や結婚はあっても、「友だち」は少なかった。
ここから少し見通しとして暗いことを書かなければならないが、実は、
ポーリン・ハンソンのワンネーションやウィンストン・ピータースのニュージーランドファーストが、オーストラリアやニュージーランドで国を席巻したあとで、急速に収束したことの理由のひとつは、
「インターネットの情報量がいまより格段に少なかったから」でもある。
オーストラリアもニュージーランドも、日本と同じで欧州諸国とは異なる大衆民主主義の国です。
大衆民主主義には「誰にでも機会の平等が与えられて人生で幸福になるチャンスがある」という良い点もあるが、社会全体が奇妙なことを信じ始めて、一種の狂信的な熱狂社会を生み出す、という欠点がある。
アメリカのマッカーシー旋風などは、よく挙がる例だが、それとはまた性質を異にして、全体に狂信性を帯び出すと止まらない傾向があるようです。
日本では統一教会の政治家との癒着がおおきな問題になったが、表面に見えるものが異なるので、一見、まったく異なる事象に見えるが、よく見ると、
アメリカでは、伝統キリスト教からみると到底キリスト教のうちに入れるわけにはいかない福音派が、Andrew Sullivanが言うクリスチャニズム(右派政治勢力が利用するための贋キリスト教)として、統一教会とおなじメカニズムを働かせている。
衆愚の培養装置としてのインターネット、分けてもSNSと、政治勢力を伸ばすための贋作宗教とは、大衆民主主義の同じ患部に巣喰う狂熱発生装置で、大袈裟ではなくて、いまこの瞬間に人類全体を危機に向かって運んでいる。
日本はもうすぐ参院選だそうで、昨日、NHKのニュースサイトを見ていたら、最新の世論調査では、いろいろな国の排外政党をコピペしたような主張を持つ参政党が6%近くに支持率を伸ばして、共産党の3%、国民民主党の4.9%、公明党の3.5%を超えて、野党第一党の立憲民主党(7.8%)に迫る勢いで支持率を伸ばしている。
トランプが二期目に当選したとき、自分の人生を成功とみなすことが出来ないひとびとが心から憎む、社会のエリートに連なるリベラルであることを誇りにし、ウォール街を擁護するようなひとびとが、トランプサポーターのバカっぽさを強調して、知的に優位な立場から嘲笑するたびに、おおぜいのアメリカ人たちが自分たちの破滅まで覚悟して、トランプ支持の一票を投じていったが、その原動力のなかで「エリート気取りの豚野郎」たちへの反感と並んで彼らを強く衝き動かしたものが「異なるものたちへの違和感」だった。
その現実ですらない脅威への嫌悪と恐怖心がネットという衆愚装置によって輻輳されて、大音響になって社会を支配するに至った。
その経過のなかで、自由社会の価値や伝統民主社会は死んでしまった。
弱い者へのempathyや、integrityは、「弱者の特徴」だと公言されるところまで、これまでの人間の文明は否定されて破壊されてしまっている。
日本は、まだ、いま世界がたどっている絶望への歴史の、その出だしのところで、日本の人が悪い癖をだして、
「なにをやってもどうせダメだ」と言い出さずに、
「ここから引き返す」という強い意志を持つことを願っている。
日本の人にとっても、それが自信を回復する初めの一歩になる。
長々と90年代のニュージーランドで起きた排外運動について書いたのは、
聡明な日本のひとたちのことだから大丈夫なのだろうとは思うが、一方では、
かつてのオーストラリアとニュージーランドが置かれた状況とは異なって、
ネット衆愚と、それを積極的に利用することを学んだ排外政治家という新しい条件が、やや遅れて排外運動が起こった日本社会にはあるからです。
人間にとっては無知や経験のないものを相手にする恐怖心から来る先入観こそが世界認識の大敵で、かつてのニュージーランド人の姿で判るように、ごく当たり前のように、ありもしない「日本人による侵略」という共同の幻想を見てしまう。
騙されないで。
自分が見ていると信じている「現実」が、他の立場や角度から見ても、やはり同じに見えるかどうか、「知の光」が十分に射す場所で、見つめ直してほしいと願っています。
アメリカでは、伝統キリスト教からみると到底キリスト教のうちに入れるわけにはいかない福音派が、Andrew Sullivanが言うクリスチャニズム(右派政治勢力が利用するための贋キリスト教)として、統一教会とおなじメカニズムを働かせている。
これは理解していなかった。ご説明ありがとうございます。
日本では、立場の弱い人、あるいは、政治に無関心な人がカルト宗教やマルチ商法に騙されるように参政党に流れており、支持者をdisるよりは、マルチやカルトに騙されるな、気をつけろ、と皆が大声で叫んだりネットで拡散したりする方がはるかに有効なんだろうと思います。排外主義がダメ、というよりは、詐欺師に騙されたらお前が損をするぞ、気をつけろ、とやった方が、相手をdisることにならないし、まだ受け入れられやすいのではないでしょうか。
どこかに具体的な数字のソースがあったかと思いますが、外国人に限れば犯罪率は横ばいだし、そもそも不法滞在者の割合は激減しています。なのに排外主義を掲げてあれこれやるのは詐欺ですよね。
排外主義は、身体的な原始的な、よく分からないものは、なんだか胡散臭いとか、気味が悪いていう感覚が元なんですね。理屈では分かっているつもりでも、なんだか薄気味悪い。こういった感情は根深いものがあるから、完全に払拭するのが難しい。それを、SNSで盛大に煽られたら、いっぺんに燃え盛る。恐ろしい。