チープイーツ天国 アジア料理篇
26/7/2026
東京は「食べ物が安くておいしい街」として英語圏やアジア諸国の若い人たちに人気がある。
あんまり安い安いと言われると、日本の人たちのほうでは、
「このぐじゃぐらぐらな気持ちをどこに持って行けばいいのだろう」と思うに違いないが、しかし、それにしても、あのおいしさで、あの値段なので、
マンハッタンなら州税とチップを入れれば4000円するラーメンが東京では1000円で、時々、用事があって会うニュージーランドの若いひとたちなども、ビンボな大学学部時代の楽しみは、友達グループで「フジロックに行って、ラーメン屋巡りをして帰ってくる」日本旅行だったようです。
毎年、行っていたが、最近は外国人は歓迎されないようだ、とネットを通じて知って、このあいだ話したときは韓国へ鞍替えしたのだと述べていた。
釜山、いいですよ、
えっ、ガメさん、行ったことがないんですか?
だって日本に長期滞在で居たことがあるんでしょう?
なんで、あんな良いところに行かなかったんですか。と詰ったりする。
最近は、東アジア諸国への解像度が高くなっているので、恥ずかしくて、とてもではないが、韓国と日本は似たような国と思っていた、なんて言えません。
言うと、あの若い人特有の、礼儀正しい、気持ちのよい「ニッコリ笑い」付きの、「このバカおやじめ」視線殺人光線を浴びてジュワッチなので、3分で席を立って帰らなければならなくなってしまいます。
東京ほどではないが、オークランドも、食べ物がおいしい街で、
不味い店は観光客が訪問するヴァイアダクトやコマーシャルベイに集中しているので、気取られなくて、サンドリンガムやバルモラル、はたまたミドウランドで、うめー、をする極楽に、リラックスした雰囲気で心置きなく浸れる。
食べ物の街としてのオークランドの特徴は、フードトラックから、ひとりあたり食事代が10万円を軽く超える、モニさんお気に入りのレストランまで端から総花な東京とは異なってビンボな国柄を反映して、cheap-eatsの花の都であることです。
余計なことを述べるとcheap eatsという言葉は、英語として考えると、たいへん面白い言葉で、cheapという単語は英語では日本語の「安い」よりネガティブ味が強い単語だが、cheap wine, cheap foodとは異なって、悪い意味を含まず、「コスパが良くて美味い」という良い意味しかありません。
日本語だと「安うま」だろーか。
もうひとつの特徴は、なにしろ、90年代の終わりから大々的に多文化なので、これが、わしガキ頃には、よく見かけた、レストランで声高に日本語を話す日本のひとびとに、自分の席から歩いて行って、「ここは英語国だぞ。
英語で話せ、この野蛮人め!」なんちゃっていたのと同じ国だろうか、と思う変わりようで、判りやすそうな例を探すと、少なくともわしが普段会うひとたちは「中華料理」という言葉を使わなくなっている。
四川料理、湖南料理、福建料理、…で、自然と区別されていて、スペイン料理とポルトガル料理くらいの差異は認めているもののよーです。
人気があるのは、なにしろ数が圧倒的に多いので、おおげさに言うと中華を食べたいなあ、と思うと避けられない四川料理で、「チャイニーズBBQ」と呼ばれることが多い、ニュージーランドにおける中華料理の老舗の香港料理と、このふたつは、多Microdot(マイクロドット) & Sanchez(、実は中華料理なのだ、という意識もないのではなかろーか。
(外廊下、と書くのを我慢ちゅう)
中華ではウイグル人がんばれ、という気持ちもあって、新疆羊肉炒麺やラム餃子みたいな羊肉料理が売り物の新疆料理店が人気があるが、またまた余計なことを書くと、最も人気があるチェーンは少林麺館という、ウイグル料理店なのに河南省の名前が付いているのは、なんでやねん、な店だが、訊いてみると、河南省には大きなイスラムコミュニティがあって、ラムを使ってスパイスを利かせたハラル清真料理が名物なのだそーでした。
ついでに少林館と名付けたのは、オークランドでは西安料理や新疆料理に限らず、麺は手打ちで、職人がバンバンすんごい音を立てて調理台に叩きつけて、生地を空中でぶん回したりして作るのが普通だが、これがカンフーみたいでかっこいいからつけた、というテキトーさで、なるほどニュージーランドに適応性がある主人であると、感動しました。
ゴルファーのリディア・コーやBLACKPINKのロゼを始め、Microdot& Sanchez、Bizzy、BeenzinoにDanny Leeと、「世界で活躍する」韓国系人にはオークランド出身者が多いが、当然、韓国料理がゴチャマンとある街でもあって、いつか「日本にいたときに行きそびれたので韓国に食べ物歩きにでも行こうかとおもう」と韓国系友に述べたら、「世界でいちばん韓国料理がおいしいのはオークランドだよ」と事もなげに述べていた。
韓国料理では、なんといってもバンチャンが好きなので、
「でもネトフリの韓国料理番組とか見てるとバンチャンは向こうのほうがおいしそうだね」と言ってみたら、「うーん。オークランドの店は量がけちくさくはあるな」と部分的に同意してもらえたが、多分、バンチャンの高みが理解できないパケハ(←白人のことです)がバンチャンを残すことに嫌気がさして、あるいは怒りを感じた店主たちが、なにしろお代わりは無料なので、量を減らし続けてきた結果なのではないかと思われる。
いわゆる「焼き肉」も、おいしいです。
日本では高いほうに属する料理(おまけにバンチャンなし)だった記憶があるが、オークランドは、やや高めではあるがcheap eatsで、骨のまわりに巻き巻きしたカルビをハサミでジョリジョリと切って弱火で焼く焼き肉は、めんどくさいのであんまり食べに行かないが、食べると、
「さ、さすがは、本場は美味い…あっ、ここ、ニュージーランドだった」
のおいしさです。
肉と野菜に加えて豆腐が入っている韓国餃子や、豆腐チゲ、カルビチゲ、冬の午後、チゲを前にちげちげとしていると、韓国料理は美味いなあ、としみじみ思います。
そして、インド料理!
パキスタン料理!
アフガニスタン料理!
おいらも忘れちゃ困るぜスリランカ料理!
で、そろそろ中華料理屋なみに「パンジャビ料理」「ケララ料理」と、やや精細度が高い呼び名でパケハにも呼ばれ始めたインド料理は、わしにとっては、オークランドのなかでも最高の味覚の王様で、マハラオでマハラジャなので、なんだかいろいろ分別があったような
ことを言っているが、ほんとうはインド料理がいちばんおいしかったからオークランドに住んでいるのを見抜いているモニさんは、
いそいそと、「わし、ちょっとサンドリンガム行ってくる、一緒に来る?」と誘うと、絵描きがクライマックスに達しているのでなければ、たいてい一緒に付いてきてくれます。
パパトイトイにある、クルチャがめっちゃおいしい(最近流行の)チャイカフェに出向く場合には、クライマックスでも誘惑に負けて、一緒についてきてしまって、後で後悔して機嫌が悪くなるので、注意が必要なのだと言われている。
オークランドは、食べ物だけをとっても、ことほどさようにパラダイスで、店名がパラダイスで元首相のジャシンダはんがファンだったレストラン基幹店をサウディアラビアに移してしまったので、なんだか広いキッチンが寂しそうだが、街全体がパラダイスに拡大して、きゃあ、幸せ、と思うが、
念のために述べると、人間の味覚嗜好は、おいそれとは変わらないもののようで、あるいは、このごろは、トランプのバカタレの影響かファラージュの病気が伝染したのか、反アジアの鬼女ポーリン・ハンソンが大復活を遂げたオーストラリアに続いて、NZ差別主義政党アクトの悪魔くんシーモアがのしてきて、ちょうど日本でいえば統一教会かな?デスティニィチャーチが「シーク人は出て行け」デモを組織したりして、まことにろくでもないが、そういうこともあるのか、白人の姿は、相変わらず、あんまり、というか、まったく見かけません。
わしは、あれは一応褒めているんだとおもうが、「白いのに珍しい」とかで、店員さんたちにいきなり顔を覚えられて、最近では、テイクアウェイを買いに出かけても、注文の品を渡すくらいでは帰してもらえなくて、
「あんたの奥さんみたいな美人と知り合うにはどうするんだ」とか、
ヨットに乗るには免許がいるのか?
ボートを持つには、いくらくらいかかるんだ、みたいな、わしは「おばあさんの知恵袋」か、な質問に始まって、
トランプは、どうしてあんなにバカなのか?
のような、なんでわしに、それを訊くの、に至るまで、混んでいる時間帯を狙っていかないとなかなか放免してもらえない事態に立ち至っている。
アジアの人のやさしさは、欧州系人のやさしさとは手触りが別で、
絹のよう、というか、不思議なことに、この「やさしさの手触り」だけは、インド亜大陸のケララから、日本まで、変わらない。
アジアの人と結婚したら、どんな暮らしだったろう、と考えると、不埒で、
モニさんのほうをチラッと見て、やばいやばいやばいと、慌てて妄念を追い払ったりします。
いつか、デブPなる友達と一緒に、ビールを飲みながら、ポルノサイトを見ていて、
「えええ?アジアの人って、あんなことしちゃうの?」
「な、ガメ、おまえもそう思うか。最高だよな」
「バカ、そういう意味ではないわ」
という上品さ丸出しの会話を交わしたりしていたが、そういう物理面から、目の光りのやさしさまで、なにもかも異なるようで、ああいうことは言語の影響もおおきくはなさそうで、どういうメカニズムが働くとそうなるのか、ときどき、考える。
そこの、きみ。
そうではない。
そっちのほうのことを考えているのではないのよ。
いいとしこいて、ダメじゃん
ときどき、日本の人が自由や民主社会に切実な興味をもたないのは、実は歴史が長い、根が深い日本文化、あるいは、それが普遍化した日本文明と呼びうる、あの独立小宇宙のありように原因があるもので、西欧的な言語で検討しても、無意味なのではないかと考える。
少なくとも「個人の自由」など、日本の人には必需品であるのかどうか、自信がない。
自由より秩序と安定こそが、日本の人が大事にしたい「価値」なのではないかとおもうことがある。
わし自身は秩序も安定も、退屈そうなので嫌いだが、日本の価値体系から見れば、ヘンテコリンで、なにも日本の人に言ってみるまでもない、とおもわなくもない。
日本にいるときは、小豆の風味が耐えられないくらい嫌いだったのに、ニュージーランドに戻ってから味をおぼえて、ときどき食べる「中国ぜんざい」紅豆湯を食べながら、アジアの良さや、日本の良さについて考えます。
頭では、ずっと判っていたつもりだったが、ほんとうは、かろうじて照応が可能だというくらいの、ふたつの全く異なった価値宇宙なのだと、迂闊にも最近になってやっと実感を伴って判ってきた。
その結果、アジアや日本の固有の姿を、一層好きになったのは、言うまでもありません。





ええなー多文化共生
だいぶ敵意を浴びる言葉になっちゃったけど、やっぱりええよな
アジアの人に拡げて考えられるか(私には付き合いがなくて)分かんないけど、日本語人の、より大きなものや広いものへ同期してしまう感覚は、私は好き。
自分と私を含む私とあなた、あなたと私と皆と世界を含む何かと同期して一生懸命になれるのを好ましいと思う。
それが何故か自分をexcludeしたり、目の前の「既に居る相手」、あるいはこれから「我ら」に合流する子どもを、洗脳すべき敵のように扱うから、そこは嫌い。
「みんな」に含まれない自分に対する、同調しない相手に対する攻撃性はすごい。
自分を支配しようとせず、相手を変えようとせず、目の前の、わけ分かんねー言葉を話す見慣れない大男や、屈服させられない自分自身も、我らなんだ、と思うのに何が必要なんだろう。
敵かな?
て、「日本」が出来てきた過程を知りたいと考えます。
「自分」をexcludeせずに「みんな」の利益を考える操作ってどうやったっけ、とか、思い出さないといけないことが多いみたいです。
霧が濃いよー、最近ガメさんの記事、快刀乱麻に分けてくれるんじゃなくて、霧の前まで案内される事が多い。
わしらも自分たちで考えなきゃね。