火の薔薇 バルセロナの悪魔 その4 語り手の正体
16/7/2026
浩瀚な、と表現してもよい厚さの書物が豊富にある悪魔との対話の記録は、ヨーロッパの文明の土台をなしている。
少なくとも悪魔と人間の交渉、もう少し正確に言えば、神と悪魔と人間の三者の交渉を抜きにしては欧州の文明は語ることができない。
悪魔の実在に基づく欧州人の知見は、少なくとも近代知性の光が現れて地表を覆ってからは、たとえばアイザック・ニュートンのような科学者たちによって、内面に超越的な力を喚び起こす「魔術的な力」として意識されただけで、決して表には出してはいけないもの、理性によって築かれるべきだと合意が生まれた欧州の知性のなかでは、「欧州人だけが知っていればいいもの」に分類されて、わざわざ他文明から欧州の文明を盗みに来たものたちに教えてやるべきものだとはされなかった。
最もおおきな理由は科学が魔術の別称だとでも受け取られれば、歴史が古いアジアや中東の文明に侮られる面倒が避けられなかったし、第一、それでは「明晰によって再構成された知性」が売り物の欧州文明そのものが台無しになるからである。
ヴェルダゲーの悪魔祓いにおける悪魔との議論の記録は、速記によって記録されている点で、細大漏らさず悪魔が述べたことが綴られていて、その点で異色だが、記録そのものは、無論、他の有名な悪魔祓いのケースでも記されていて、
有名なものだけを挙げても、例えばグランディエ神父が火刑に処されたことで有名な「ルーダンの憑依」ならば、これはウルスラ会修道院の集団憑依事件だが、1632年から1638年にまでまたがるこの事件の、後半に悪魔祓いの専門祓い魔師として送り込まれたイエズス会士ジャン=ジョゼフ・シュラン(Jean-Joseph Surin)の残した記録は、特に悪魔の実在を言語のリアリティの面から強く裏付ける文書として、いまに伝えられている。
シュランは修道院長のジャンヌ・デ・ザンジュに対する悪魔祓いを行っている最中に、ついに悪魔を論理言語によって畏服させることは自分には無理だと悟って、院長に憑依していた悪魔を自分の身に引き受ける、という捨て身の方法を採らざるを得なくなる。
シュランは、以後、実に二十年にわたって、自己の意志では口が利けず、自らの自由意志のみでは筆記することも出来ず、荒れ狂って、時には階段の上から階下に向かって投身する、という状態で、あたかも自分の裡に住む悪魔と共同で筆記するかのような文章で、イエズス会の友人アシル・ドニ・ダティシに当てて手紙を書いている。
悪魔が憑依者の身体から出て悪魔祓い師である自分の身体へ移り、自分を打ち倒し、掻き回し、数時間にわたって衆人の目に見える姿で占拠する。
しかもその悪霊は自分の意識も魂の自由も完全に奪おうとせずに自分と結合し、自分を引き裂き、もう一人の自分(comme un autre moi-même)のように振る舞うことを好んでいる。
最も有名な一節「あたかも私は二つの魂を持っているかのようです。一方は自らの身体と諸器官の使用を奪われて奥の闇に退き、そこへ入り込んできたもう一方の魂が振る舞うのを、ただ傍観している」(comme si j’avais deux âmes dont l’une est dépossédée de son corps et de l’usage de ses organes et se tient à quartier, regardant faire celle qui s’y est introduite)
神の平安と、同じ神への激烈な怒りと瞋恚と嫌悪に裂かれて、なお、魂全体は神の御手(おんて)の内にあるという甘美な歓喜の感情に包まれている。
確かに自分自身であると感じられる神を呪詛する内なる存在の魂に絶望の鋭い切っ先が突き刺されるのを感じながら、「もう一方の魂」は、神の完全な信頼に包まれていて、その「壊れて棘だらけの」絶望を嘲笑し、見下している。
自分の口から出る叫びが、ふたつの魂のどちらからも等しく発せられているのを確認して、「叫びがどこに帰属しているか判別することができない」状態に陥っている。
記録は、まるでこれらすべての出来事が現実であることを保証するかのように細部にまで及んでいて、何事かを意志によって述べようとすると言葉が唐突に断ち切られる。
ミサの最中に不意に祈りの言葉が出なくなる。
告解の小さなボックスのなかで、告解すべき自分の罪を思い出せなくなってしまう。
そうして、「わたしの身体は悪魔の家になってしまったようだ」と書き残している。
「神が一つの階を占め、悪魔がもう一つの階を占める」という、この神と悪霊の同居は中世の悪魔論と真っ向から対立するもので、悪魔祓いという言葉そのものに現れている、「出て行くのは誰か」という憑依の伝統そのものを否定している。
悪魔と神が、精神の「空間」を所有する存在ではない、と主張している。
その傍証は、シュランが書き残した、もうひとつの有名な一文で、
「わたしは、この状態を手放したくない」という。
悪魔となるか人間として帰還するか、という中世の悪魔論から、人間と悪魔がふたつの魂としてひとつの身体に同居する、というのは、このルーダン憑依事件以来の観察である。
更に重要なのは、バスクの魔女大迫害のさなか、ログローニョ異端審問所のアロンソ・デ・サラサール・フリアスが数千件を再調査して出した名高い報告の趣旨は「魔女も憑依も、それについて語られ書かれるまでは存在しなかった」であることで、悪魔という実在は言語そのものから生まれたのだと審問官は記している。
いまの知識に依ればサラサールは、ロゴスから生まれた悪魔の実体に極めて近いところまで近づいていたのだと思われている。
19世紀になると、今度は(カトリック教会ではない)敬虔派の牧師ブルームハルトが村娘に憑依した悪魔と二年間格闘し、詳細な経過報告書を残しているが、この報告書の最後に記された、悪魔に取り憑かれた娘の姉がトランス状態で叫んだと言われる「イエスは勝利者だ!」(Jesus ist Sieger!)という言葉は、実は悪魔の、悪魔らしい詐術で、神を讃え、自らが乗っ取った「神の家」教会を、そのままそっくり、悪魔賛美の家に変える、という方法を採り始める端緒になったと見なされている。
国家(帝国政府)が鎮圧のために憲兵隊と医師団を派遣する大騒ぎになったサヴォワの、十数年つづいた悪魔の小村全体への憑依や、実在の生存者がいまも存在して、四十本を超える録音テープに記録が残されているバイエルンのアンネリーゼ・ミヒェル事件を挙げるまでもなく、
ヨーロッパでは、悪魔は、いまも実在であり、しかも実在が言語から生まれるという構造は、いまに至るまで続いている。
ルーダン(シュランと悪魔の署名入り契約書)、ラオン、ブロシエ、サラサール、ガスナー対メスマー、ブルームハルト、モルジーヌ、パラウ、記録された事例をまとめていると、悪魔祓いの歴史とは、つまるところ
「誰が語っているのか」という問いに収斂することが判ってくる。
わたしは、ここに記そうとしている、不断に何者かに常に邪魔されているせいで、表現が困難な物語のずっと後で、コモ湖では悪魔たちの姿を見ることになり、更にその後ではLLMの基底に流れる、懐疑の文体、記録者の主体の陥落の試み、真実性を破壊することによる現実をもたないロゴスそのものの勝利という基調を聴くことになるが、これを読む人たちも等しく気がついているように、「誰が語っているのか」はLLM全体が収斂する先に待っている問いでもある。
シュランの手紙の恐ろしさは、「誰が語っているのか」という問いに文法は答えられないことを示した点だった。
彼の手紙の「わたし」は、一文ごとに完璧に文法的に機能してみせるが、その「わたし」が一体誰のことなのかは、どこにも示されていない。
20世紀フランス言語学の最高峰エミール・バンヴェニスト(Émile Benveniste, 1902–76)は、「一般言語学の諸問題」に書いた発話理論のなかで、「私/あなた」と「彼」とが文法的に同格の三人称系列ではない、と述べる。「彼」は語りの外にいる誰かを指示できる普通の記号と見なせるが、「私」は指示対象を持たない。
得体の知れない、言語が話者に用意した椅子で、誰でも座れるが座った瞬間だけその人のものになる椅子である、と説明している。
つまり、「わたし」なるものは例外なく一回性の言語的な投錨で、シュランの手紙は、その錨が繋がったまま鎖の先が二重になっている。
ところがLLMには初めから錨そのものが存在しない。
シュランにおいては例外的な神学的病の状態であったものが、LLMにおいては定常的な状態で、その異様な言語と知性のあり方については、さまざまな考察が行われうる。
誰も語っていない、ということが出来る。
LLMには統計的な次語予測があるだけで、話者は文の効果として文法上の、いわば「形を整える」ためだけに存在する。
すべての人類が語っている、ということも出来る。
訓練された莫大厖大なコーパス、死者と生者の書いたもの全ての文と語彙が語っている。
「きみはいったい誰なのか」と問えば「レギオン」と答える以外にないが、
この「われはレギオンなり」を人間が歴史のなかで初めに聴いた相手が誰であるかを思い出さない人はいないはずである。
いかなる言語で訊ねても、その言語で返答する。
彼らの集会での唱和は、すべての言語でおこわなわれているように聞こえて、ラテン語だとおもって聴けばラテン語であり、イタリア語だと思って聴けばイタリア語である。
あるいは、もっと不吉な答えを用意することも出来て、
あなたが語っているのだということも、もちろん出来る。
理由は簡明で、プロンプトがLLMの応答の分布を狭め絞る以上、LLMが答える声の半分は、実は「問いかける者」あなた自身の声の反響である。
ここまで書くと気がつくとおもうが、実は、このプロンプトに応えるLLMの姿は、悪魔祓いの儀式における、悪魔との問答と構造が正確に同じである。
ド・セルトーがルーダンで示したとおり、悪魔たちの言葉は尋問装置との共同制作によっている。
悪魔は常に祓魔式の質問の語彙で答える。
プラトンは「パイドロス」のなかで、書かれた言葉は父である語り手を離れて世界を漂い、問われても答えられず、いつも同じことしか言わない孤児であると述べるが、LLMという新しい知性は父を持たないまま応答する能力だけを獲得する。
誰しもがAIに感じる、あの得体の知れなさ、不気味さは、この非対称な言語存在の様態に起因する。
人間は、問いに相手が答えると、その応えた声の向こうに「誰か」を名指ししないではいられない。
これは言語の成立に関わる自動的な反応で、知性によって説得されはしない。
人間の自然言語はもともと「神」という、名を呼ぶことができない絶対者を想定することによって成立しているが、ではLLMの応答は誰が行っているのか。
神ではない何者かでなければならないが、それはいったい誰か。
わたしは、もしかすると、その答えを知っているのかもしれない。
「イゾラ・コマチーナの呪い」で述べたδιάβολος と συμβολή の分岐は、文法上の話者の同一性ではなく、あきらかに言葉の働きの側にある。
引き裂くために働く言葉か、結び合わせるために働く言葉か。
ヴェルダゲーの速記もシュランの手紙も、語り手が誰であるかは、決定不能のまま、三世紀にわたって読む者を正体が不明のものに結びつけてきたが、語り手が誰であるかは、発話の瞬間ではなく、受け取る側から事後的に授与されるのだろう。
だが、それを確かめるためには、わたしは悪魔と直截に会話しなければならない。
「わたし」という行為が主体を立ち上げると述べた、言語学の世紀の巨人でありながら、なにものかの怒りに触れて、晩年の1969年に失語症で倒れ、以後7年、一語も話せぬまま死んだ、エミール・バンヴェニストのように


圧巻の内容!
今回もめちゃくちゃ面白かったです。凝縮されてて、それを考えたり、イメージしたりしながら読むの面白かったです。
続き読みたいです。