超初級ビンボ講座その5 「知」の家へ帰る
24/3/2026
赤貧はダメだが清貧は良いのだと言われている。
誰が言ってるんですかって?
名前を出したら殺されるイランの最高指導部のひとりが言ってるんです。
五日のあいだはホルムズ海峡が開いているので、株価は暴騰、オイル相場は暴落で、
わしゃまたインサイダーでボロ儲けじゃけん、とアメリカ国民が仰ぎ見るトランプ先生も言っておられる。
中東については、むかしから「内輪話」が交わされる場が複数存在するが、
その「内緒話」の、どの場でも、あれはトランプの「ただのウソ」ということになっている。
こんなの初めて見た。
赤貧というのは、毎日、お赤飯しか食べられない生活という意味ではありません。
赤の他人、というでしょう?
まったく知らない他人、という意味ですね。
赤裸々という。
裸を見られて全身真っ赤になっているわけではなくて、「むきだし」という意味です。
赤一文、赤手、という。
赤手(武器を持たない素手)になると、理解するのにキョーヨーがいるよーだ。
めっちゃビンボ、という意味の赤貧は、日本語がまともな言語だったころには、誰にでも判る表現だったのは、クリシェとして
「赤貧、洗うがごとし」という表現があったからで、別に辞書を引かなくても、
ああ、洗ってピカピカした、なあああんにもない貧乏のことね、と表現自体が説明していた。
而して、赤貧は、やばいのよ。
義理叔父だったとおもうがトーダイおじさんのひとりは、高をくくる癖があった。
当時は、いまよりトーダイセイやキョーダイセイは日本社会のエリートだったので、バイトさえ手を出せば、なにをやっても食えた、という経済背景があります。
キョーダイは、京都人は教育にはケチ(←京都人談)なので、大阪まで遠征しなければ家庭教師の口がない、という特殊性があるようだったが、トーダイなんて、「世の中なんて甘いもんだ」と、事もあろうに家庭教師先で口走っても、「まあ、先生にとってはそうでしょうね」と穏便に済ませてもらえるくらいで、この世は甘い蜜の壺で、性格が悪かろーが(←3例、有り)
ナマケモノだろーが(←例、多数)、トーダイならマイペンライで、過ごせた。
世の中なんて甘いもんじゃん、というなめた態度が昂じて、義理叔父は、バイトもせず、自分の勝手でひとり住まいのアパートで、電気が止まり、ガスが止まっても、悠々とオカネを考えずに暮らしていたが、あるとき、ATMに行ったら「残額が足りません」という実社会からのメッセージが出て、オカネが下ろせなかった。
鎌倉ばーちゃんは旅行中で、義理叔父の叔父、ぎりおじおじに電話して、すみません、オカネがなくて今晩食べるものがありません、と述べたら、
「ワッハッハ」と言うなり、がちゃんと切られてしまった。
はっ?
ガチャン?
なんの擬音ですか?
と若いきみは言うであろう。
むかしはですね、電話機に受話器を置くと「ガチャン」と音がする特殊効果音発生装置が付いていたのです。
はっ?
受話器を「置く」んですか?
ボタンじゃないの?
うるさい。
歴史を勉強しなさい。
一日、飢えて、「オカネがなければ食べられない」、四年間の学部生活より多くのことを学んだそうです。
清貧はですね、そういうことと無縁である。
まず、霞が食べられるようになります。
荘子の「逍遥遊篇」にある
藐姑射之山,有神人居焉。
肌膚若冰雪,淖約若處子。
不食五穀,吸風飲露。
ちゅうやつね。
姑射山(こやさん)に神人がいる。
肌は氷雪のように白く、処女のようにしなやか。
五穀を食べず、風を吸い露を飲む。
げげっ、なんにも食べないなんて、正体は「二口(ふたくち)男では」と思った、そこのきみ、きみは水木しげるのマンガの読み過ぎです。おっちゃんのマンガ、面白いけど。
「気」を食べて生きる。
哲学があれば三度の飯など要らぬ。
二度でいい、という意味ではありません。
ここで「気」は真理をあらわして、真人となって、考えに集中していればお腹もすかない、という状態を荘子の誇張表現で、表現したのだと思われる。
あれで案外、現実に即しているんですね。
たしかカーライルだったとおもうが、文明の定義として、本もなにも持たず、ただ終日天井を見つめて考えを巡らしているだけで、一日を過ごせる能力のことである、と述べていたのを、子供のときに読んで、
そーかあー、文明度があれば節約人生が送れるのかああー、と感動したことを憶えているが、いったんベッドに入ればリヒトホーヘンになったり、神様になったりして、なかなか忙しい子供の時分に教わったことのなかで、いまに生き延びている、珍しい「真理」のひとつである。
人づてに手に入れてもらった
「知は力なり」
という、プロレス世界きってのインテリ、ジャイアント馬場がモデルを務めている銀座近藤書店のポスターを持っているが、まことに知は力なので、
無知と無教養が支配するに至ったいまの世界を見れば、
バカがつくる世界は、やっぱりバカであることがよく判ります。
バカに交じってはバカになる。
そこで正しくビンボであるためには、世界から、なんとしてでも距離を保たないと、バカもなにも、人生の意味が雨散霧消してしまう。
ビンボと親和性が高い「知」としては、まず第一に美術が挙げられる。
えええ?
数学じゃないんですか?
哲学は?
歴史は?
天才バカボンは?
知の人として、きみは疑問を抱くであろう。
ここで、ほら、「知」の正体が「光」であることを思い出してもらいたい。
知は光であって、ネガティブな闇を内包した「知」なんて、ほんとうは、この世には存在しないのよ。
その光が、言語の方向に射せば思索になり、哲学や数学として現世に姿を顕し、言葉のない世界に向かって射せば、絵画になり、彫刻になって、
「知」に形を与える。
知がどんな形をしているか、無から彫りだしてくれる。
こういう知の世界全体の入り口として日本語で通してもらえるものには、総門として
・ジャパンサーチ
・Google Arts & Culture
なんてのがあります。
前者は国立国会図書館の運営ですね。
「わ、わし、なにを見たいのか判らないんですけど」というひとびとには、
Open Cultureみたいなサイトが良いのだと言われている。
毎日、こーゆーのがあるぞ、
世の中には、こんなものもあるんだよん、
と提案してくれています。
しかも質がなかなか高い。
後はAIなり、新宿駅西口で樽に入って昼寝しているホームレスの賢人なり、なんなりに訊くとよいが、
・全国美術館収蔵品サーチ「SHŪZŌ」
なんてのは有名ですね。
日本の外に目を向ければ、
・The Met Collection
・Louvre Collection
・British Museum Collection Online
みたいな有名どころを初めとして、天使も女神もエロイーズも、みいんなオンラインになって天上世界を形成しているので、グリコのジャイアントコーンを、なめちゃいながら、スクリーンに見入っているうちに、
世界が終わる….ま、間違えた、世界が開けていくに違いない。
おまけに、ここが重要だが、
タダじゃん。
だいたい1ヶ月くらい没頭していると、世界がだいぶん好きになっている自分を発見する。
どうやら、「知」は、愚かさと過剰なオカネの汚れを洗い流してくれるシャワーのようなものでもあるようです。
現代という時代の欠点は、「知」の力を過小評価してしまったことで、
人間を温かい気持ちにしたり、闇のなかの遠くに見える一条の光であったり、よく考えてみれば人間がホッと息をつけるのは、ただただ「知」によってのみであるのに、他人に対する優位性を誇示する道具として「知」を使うようなことまでする落ちぶれた社会では、「知」なんだかブランドもののハンドバッグなんだか判然としない。
ピケティはシャネルじゃねーんだよ、ばあーか、と泣きたい気持ちになりながら、きみは、オカネや欲望ばっかりで、ゴツゴツで、カサカサな荒野を、
「知」の光を求めて彷徨している。
トランプなんて、政治家としてばかりか、人類が産みうる最悪の人間だが、なぜそんな人間がのさばるのかを考えると、十五分もしないうちに、我々がどれほど誤った「繁栄」の道を歩いてきたか判るでしょう。
我々は、すべてをやり直さなければならない、と、モニさんの誕生日を祝うために遙々欧州からやってきた、「西方の三博士」は、酔っ払って、だらしなくなった目の光を涙で滲ませながら、しかし、心から述べていた。
もうわたしたちが生きているあいだに知の復活を見ることは敵わないが、なにもかも、自由、平等、というような概念さえ、懐疑の秤にかけて、測定しなおさなければならないだろう、
もうこうなったら結果は関係がない、結果を目にする希望もない、
とにかく、その方向に向かって歩き出さねば、と述べて、
世界への絶望と二日酔いで嘔きそうな苦悶の表情を浮かべつつ去っていきました。
光ではないものを知とは呼ばない。
他人を傷つける知なんて、ただの紛い物ですよ。
ビンボにはビンボの正義があって、その正義は「知」と常に肩を並べている。
オカネなんて、附録ですよ。
昭和の十大附録付き少年雑誌「冒険王」じゃあるまいし、附録につられて人生を送ってよいわけはない。
いまこそ、「知の家」へ帰る


今日もまばゆいばかりの知の言葉をありがとうございます✨
「現代という時代の欠点は、「知」の力を過小評価してしまったことで、
人間を温かい気持ちにしたり、闇のなかの遠くに見える一条の光であったり、よく考えてみれば人間がホッと息をつけるのは、ただただ「知」によってのみであるのに、他人に対する優位性を誇示する道具として「知」を使うようなことまでする落ちぶれた社会では、「知」なんだかブランドもののハンドバッグなんだか判然としない。」
まがい物や張子の虎のようなエセに騙されないように、たくさんホンモノの美を見て目を肥やすのと同じで、本物の知とは何かを見抜くためには、ある程度ホンモノに触れないといけません。読書📖が大事な所以ですね。
ご紹介くださったオンラインの美術館コレクションも是非、眺めてぼーっとしたいです。中国時代劇ばかり見てないで…😅
ガメ友の西方三博士さんたちさえも
「もうわたしたちが生きているあいだに知の復活を見ることは敵わないが、なにもかも、自由、平等、というような概念さえ、懐疑の秤にかけて、測定しなおさなければならないだろう、
もうこうなったら結果は関係がない、結果を目にする希望もない、
とにかく、その方向に向かって歩き出さねば」
とおっしゃるような世界を生きるのは、むしろ苦しくて当たり前、淡々と「お片付け」しながら、曇ったガラス窓を拭いて、少しでも光を取り入れて、次に来る人がホッと息をつけるような場所を作っておくことが凡人かつビンボ人の私にもできることなのかな、と思います。また、今の方向性が間違ってはいないと、希望か持てました。
私自身も温かな知の光に随分救われてきたので、若い人たちにもそれを伝えていきたいです。😊
うん、お家に帰ろう。
神だって、七日目には休んだのです。
ちっちゃいお家でところどころ壊れかけたりもしてるけど、雨露しのげて安心して寝れる。
ちっちゃいけど、無限大のお家に帰ろう。