ガメ・オベール JamesJames

ポストリベラル6 懲罰的民主政について

6/8/2026

ガメ・オベール JamesJames's avatar
ガメ・オベール JamesJames
Aug 05, 2026
∙ Paid

いまでは顧みられなくなった作家埴谷雄高は、1963年に出版された「幻視のなかの政治」において、政治の最も剥き出しの、裸にされた原理として、

「やつは敵である。敵を殺せ」

という要約を述べている。

カール・シュミットの1927年の有名な論文に出てくる「政治的なものとは敵と味方を区別することである」と似ているが、埴谷が、それを読んで書いたのかどうかは知りません。

カール・シュミットを読んでいなかったとは考えられないが、埴谷の

「奴は敵だ、敵を殺せ」は、むしろ、レーニンやスターリンについて思考を巡らしてたどり着いた結果が、たまたまカール・シュミットと似た地点にたどり着いたのだ、と考えたほうが自然であるような気もします。

政治が政治たるための構造要素として「敵」「味方」という概念が必須であるのは事実で、どんなに平和に語られる「政治」であっても、政治の言語には「敵と味方」の影が射している。

日本のポストリベラルの第一走者として信任された高市政権の政治は、困ったことに、「演出としての政治」が「実務としての政治」を駆逐した典型です。

自分をどう見せるか、どんな演技をすれば、観衆が喝采するか、という発想に立って立ち居振る舞いから政策までを決定しているのは、こんなことを言うのはなんだか失礼だが、演技力が十分にないだけ、手に取るように見えて、判ってしまっている。

現実とはほぼ無関係な場所で、実務をおこなうかわりに実務をおこなう演技をしてしまうことによって、政策の優先順位も政策間の整合性も、ほぼデタラメな政治になっていることは、財源を考えずに消費税を1%にしてしまって、世界の人を楽しませたほど滑稽なことに、安倍政権以来、事実上の宗主国であるアメリカ政府が、日本は独立国ということにしてあるという前提を失念して、我を忘れて、パニクる、という最近の事態を見ても判りやすいでしょう。

日本とアメリカの現在の政権に共通しているのは、

「自分たちの怒りを代弁し、嫌いな集団を屈服させ、既存秩序を壊してくれる人物」におおきな権力を持たせて、いわば「問答無用の政治」を実現することで、その結果、「選挙には強いが統治には弱い」政府を選んでしまっていることでも共通している。

トランプは今年(2026年)、およそ5万人に及ぶ数の公務員について雇用保護を撤廃して、大統領の意向ひとつで選別して解雇する制度を導入している。

念のために述べると、こんなものすごい制度変更は、アメリカでは、100年来、起きたことがありません。

自分に反論する官僚をいつでもクビに出来るようにするための暴君トランプの「知恵」です。

特に目の敵にされているUSDA(United States Department of Agriculture/農務省)では、去年の再編で離職した15000人に加えて、さらなる大量離職が予期されていて、このUSDAに典型的に見られるように、専門的で自律的な行政機構を事実上撤廃して、大統領の意思に盲従する装置へ変える「改革」がアメリカでは、猛烈な勢いで進められている。

政府自身による行政の破壊行為で、悪ふざけが過ぎるかもしれないが、日本のネット語を使えば、トランプの「ぼくが考えた実務行政」に基づいて、現実をまったく無視した行政「改革」が行われた結果、アメリカは、大統領より一足先に行政機構が麻痺を起こしてレームダック状態に陥っている。

意図された機能破壊で、主に能力が十分にないことからくる高市政権の非整合的な諸政策から来る行政崩壊とは、性格が異なるといえば異なっているが、結果はアメリカのほうが一足先に酷いものになっている。

不便でも、行政が崩壊するのでもなんでもいいから、とにかくリベラルと保守が結託した既存体制を崩壊に追い込みたいという右派ポストリベラルと異なって、日本のポストリベラルは、自分たちがやってしまった選択の結果を前にして呆然としているように見えるが、ま、原因は逆さまでも、結果は同じようなもんだ、と言えなくもない。

敵意の政治にも良い点はある。

ここで敵意の政治とは、政策や利害が異なる/対立する相手を「間違っている競争者」ではなく、国家や社会、場合によっては民族そのものを脅かす脅威、排除すべき存在として扱う政治のことを言っている。

最も評価されるべき点では、アパシーの壁を壊す力を持っていることで、敵が明示されると特に若い世代は政治に関心を持って投票所に足を運ぶはっきりした傾向がある。

結果にぶっくらこいて何も言わなくなってしまったが、もともと日本のリベラルは若い世代に自分たちは支持されていると現実離れした妄想を抱いていたので、高市自民党政権が盤石の支持を獲得した2026年衆院選で、待望の若い世代が投票所に足を運んで、2024年と比べて、

18/19歳 39.43%→43.45%(+4.02ポイント)

20代 34.62%→39.01%(+4.39ポイント)

30代 45.66%→50.89%(+5.22ポイント)

で、全有権者の+2.41ポイントを遙かに上回る若年層の投票率を知って小躍りして喜びかけたが、結果を見て、いつもの自分の過失や敗北は認めない癖で、「リベラルを非難するのは間違っている。若い世代の無知をこそ問題にすべきだ」とかなんとか、なんだかエラソーを述べてはいたものの、

混乱した気持ちになって終わることになったようでした。

リベラル人たちが、督励よりは非難に近い言い方で常々主張していた「若者の政治に対する無関心が生んだリベラルの不振」が、実は、現実とはまったく乖離していた「自分が正義であるための夢」で、当のその無関心こそが自分たちが政治的勢力としていまのいままで延命して来られたことの理由であるという皮肉な現実と直面しなければならなくなった。

これはリベラルにとっては、現実が認識できただけでも、明らかに「進歩」で、

もうひとつ、現在の日本社会で、「何と何が対立しているか」を可視化する契機にもなって、日本でも、アメリカ並みに「リベラルは体制の一部にしか過ぎない」という認識が共有され始めていることをリベラル自身に教えることになった。

はっきり言ってしまえば、いままでバラモン知識人として、自由や平等、平和国家としてのありかた、フェミニズムに至るまで、ありがたい教えを垂れて食えてきたものが、どうやら、「思想輸入業」はうけなくなってしまったことに思い至らざるを得なくなった、ということなのでしょう。

以前に書いたアントニオ・グラムシのコンテキスト上にいて、いまの世界の政治状況に極めて示唆的な指摘を行いつづけているベルギーのシャンタル・ムフは「民主政治から情念や対立を完全に排除しようとすれば、不満は消えるのではなく制度外により危険な形で噴出する」と書いているが、日本社会は正に、理性的に振る舞おうとするあまり、「危険な形」の政治が噴出する直前の段階にある、と見ることが出来そうです。

User's avatar

Continue reading this post for free, courtesy of ガメ・オベール JamesJames.

Or purchase a paid subscription.
© 2026 James James · Privacy ∙ Terms ∙ Collection notice
Start your SubstackGet the app
Substack is the home for great culture