ポストリベラル7 動員と統治
7/8/2026
戦後日本の成長を支えた「個人から見た経済構造」は、国民ひとりひとりが株主である「日本株式会社」を想定して、みなで懸命に働き、ちょうど株の配当を受け取るようにして賃金を受け取る、という、いわばdividend主義だった。
わしは、時々、まじめに日本人がアメリカ人と異なって老後を支える資産計画に株式の割合が小さいのは、「会社が悪いようにしないから」で、戦後をずっとつつがなく暮らしていけたからなのではないかと思っています。
経営してみたことがある人は判るが、企業内民主主義は、独特で、国家のように選挙や議会はなく、ガッチガチの全体主義であるかというと、そうではなく、それぞれの「社風」によって様々だが、いろいろな形であらわれる「社内世論」を、トップがうまくつかむことによって民意が反映されてゆく。
日本におけるポストリベラルは、その「日本人のやりかた」の破綻として生まれたのは、同じ新・保守政治家である石破茂と高市早苗の対照的な姿を見るだけで、かなり判る。
民主政の破綻の原因は、古代ギリシャの昔から、統治と動員(選挙結果)の背反する性格にあるのは常識に類している。
統治の成果は時間差を伴って遅くしか社会や経済に反映されず、大衆にはほぼ不可視で、成功した場合でも、誰の手によるものなのか、帰属が難しい。一方で、動員の成果は即時で、可視的で、票をカウントすることによって計測可能です。
前回述べたように高市早苗さんは典型的な動員型政治家で、統治においては唖然とするほど無能(失礼!)であることは、
自民党と公明党の連立政権だった石破政権が自民191公明24の215議席だったのに比べて、第二次高市政権は352議席という圧倒的な多数を獲得したのに、
この選挙における巨牛(ブル)が統治面で行っていることを見ると、通常国会で成立させた法案の本数からして、たった62本で、弱小与党と軽んじられた石破政権の75本にすら、おおきく後れを取っている。
しかも内容を見ると、紛糾につぐ紛糾で、野党不在のまま審議入りを強行し、さして必要がないどころか反対意見が続出していた定数削減を討議をつくさないまま無理矢理押し込み、はては首相が出席を拒否して審議が停滞するというていたらくで、
ひとによっては「統治の崩壊」という言葉を使って呼ぶくらいの惨状でした。
日本の民主制の崩壊の根本にある問題は、「選挙に勝つこと」と「国を統治すること」を結合していた中間項の解体に原因が求められる。
ここでいう「中間項」とは、
国民の意思の濾過装置としての政党
政治的には中立で政治を実務に翻訳するための機構としての官僚制
これは元々、日本では無いに等しいが、媒介された公論形成装置としてのマスメディア
のことで、これらがすべて、リベラルを含めたエリート主義の残滓と見なされて撤去されてしまった結果、個々バラバラに原子化して、しかも社会に対して「自分たちの社会」という意識を持てなくなって観客席に移動してしまった国民と、逆に、人格化された権力が、剥き出しで、媒介も緩衝もなしにゴリゴリと向き合う「剥き出し政治」が強烈な摩擦をシカトして、現実を理解できない首相が、日本を、彼女自身の、どことなく絵空事風の「愛国」に満ちた信念に従って引きずっていっているのが、いまの日本の「ポストリベラル」の実態でしょう。
アイルランドのPeter Mairが「空洞化」と呼んだ事態そのままが日本を舞台に起こっていると見なすことが最も適切で、そこでは政党が社会に根を張る媒介組織であることをやめて、国家に寄生するカルテルに変じている。
統治はするが代表しない政党が残した政治の空白に、代表はするが統治できない無能な人格が流入する。
高市首相には悪いが、彼女のバックグラウンドが芸能界で、そのなかでも、最も実質を必要としない「テレビタレント」であることは、なにがなし象徴的で、高市早苗という政治家が、そもそも統治など露ほども考慮にいれていない「選挙タレント」であることを象徴している。
自民党がポピュリスト政党に変化することをおおきく加速したのは、総裁選という一般有権者より保守アクティビストに偏った選挙人団が指導者を選ぶシステムに直接の原因があるが、もうひとつには、裏金問題で、主要派閥が最後的明示的に解散したのが決定打になった。
自民党が戦後長く政党としての健康を保ってきた秘密は「オカネ」以外は、どのような政治信条も、綱領も、二の次だったことで、このマネーバッグ政党としての自民党が健全性を保った構造については、英語でも数々の研究があるが、オカネの必要は残したまま、自民党の健康維持装置としてのマネーバッグの存在は吹き飛んでしまった。
当然、そこで吹き飛ばされていったのは、統治と動員の二項のうち、前者で、統治能力については無能に近い「動員」側の議員で政府は埋め尽くされることになっていった。
「動員」側が「うける」ための身振りは、それこそ古代ギリシャ都市国家から全く変わっていなくて、
強い信念を持っていると巧く見せる演技
断絶の身振りの演出
前例の破壊を匂わせる言辞
で、
「統治」側の、
合意の維持
根回し
慣例の運用
というようなキーワードと比較すれば、どちらが現実(しかも、未来の)に対する想像力を欠いた投票者に訴えるかは、ほぼ一目瞭然で、日本だけではなく他国も同様だが、複雑さが急激に増大して、新しいテクノロジーにしろ、必要から経済システムのなかで説明される数々の新しいモデルにしろ、現代社会においては、本来投票に必要な、自分たちがどこにいて、どんな状況に置かれていて、なにを直近の未来に対して準備しなければならないかなど、一般投票者にとっては、「統治」の側に投票することは、ほぼ不可能になっている。
どこの国でもポストリベラルが、なあんとなくバカっぽいのは、これが原因で、冗談ではなくて、現代民主社会に生きている人間は、AIにも劣る理解力しか与えられていないなかで抑圧のせいで過剰な感情のなかで政治を考えるしかなくなっている。
リベラルの死は、そういう仕組みのなかで、必然としてやってきた。
もう少し、くだらないことを言いつのると、くだらないだけに陳腐化した語彙が混入するが、よく知られているようにウェーバーの合法的支配は、任用基準が忠誠ではなく資格であることに懸かっていました。
トランプアメリカではマスメディアの手で明示的に忠誠を基準とした官僚の淘汰(例:USDA)と機構の政治的道具化が報じられているが、何事も内緒内緒で、国民には依らしむべし知らしむべからずが徹底される日本では、国民にはシカとは見えないところで、安倍政権による、内閣人事局による強烈な支配があり、「忖度」という言葉で伝わった「物が言えない雰囲気」が政府内部を支配して、いまの議連人事も、その延長上にある。
資格ではなく忠誠を基準にすれば、当たり前だが、能力への逆淘汰が起きて、高市早苗をムカッとさせるような悪い知らせを運ぶ者には懲罰が待っていて、そんな目にあうためにわざわざ悪い知らせを伝える物好きはいなくなる。
丸山眞男が言う「無責任の体系」に、筆頭著者の署名が入るようになったのは進歩といえば進歩だが、責任回路は、いよいよ霧消して、どっかへ蒸発してしまっている。
話を冒頭の「日本株式会社」に戻すと、戦後民主制の本質は、日本株式会社のプラスサムの成長配当でした。
ところが、日本は社会として自信をなくすにつれて、「この世はゼロサムなのよ」の江戸時代的な信念を持つようになってしまって、賃金上昇の停滞とインフレの現実がやがて、その近世的信念に追いついて、分配も社会自体も、ほんとうにゼロサム化してしまう。
その結果、必然として、政権の物価・経済対策への評価は異様なくらい低くなって、いまの政治=通常の機構では生活は改善されないのだ、という経験則が国民のあいだに浸透することによって、ポストリベラルという「破壊」への需要が日本社会においても積み重なって爆発寸前になっている。
トランプのように意志的に、意図をもって執行府に内戦(←実際に、トランプたちは行政府内部で南北戦争を行っているのだと考えるのは、いまのアメリカを考えるために良い観点であるとおもわれる)を引き起こす形で、「ここまでのアメリカ」を破壊しているのとは異なって、高市政権の場合は、意図せずに、浅慮と戦後日本人への敬意の欠落の結果として、戦後日本が積み重ねたものを、すべて瓦解させようとしているという違いはあるが、社会へのインパクトは極めて似た性質のものになっている。
高市政権が、どれほど「スピード感をもって」政策を決定しても、それが現実社会では遅々として反映されないのは、理由は少しでも政治と行政への理解があれば簡単で、決定が伝達されないからで、当たり前といえば当たり前なので、「動員」側の理屈で出来たチャラい政策を、現実と向き合わねばならない「統治」側が、呑めるわけはなくて、接合面ですべては膠着する。
お話をまとめると、日米で奇しくも同時に起こっていることは、コンテクストや意図が異なりはするが結果として起きていることは同じで、
「選挙に勝つこと」と「統治すること」を結合していた中間項がすべからく解体されてしまったことによるアトム化して観客席に押しやられた個々の国民が、それまでの顔なしをやめて人格化した剥き出しの権力と直截の対峙に晒される、いわば「民主制が入りこむ余地がない」荒ぶる社会に、かつては安らぎの源泉でさえあった社会が姿を変じることになっている。
余計なことをいうと、いま連載中の娯楽小説に出てくる悪魔たちのδιάβολος的機能は、ほんとうは現実世界で起きていることを、書いている人の韜晦で、エンターテインメント上の戯れ言ということにしてあるだけなのかもしれません。
ともかく。
そういうわけでトランプも高市も、一時の例外や政治史上のコンテキストからの逸脱であるわけはなく、新しく需要が生じた社会が要求する選抜環境への均衡解で、ここから長くつづく道の出発点であるにしかすぎない。
ポストリベラルは一夜の悪夢ではなく、これからの人類の歴史を覆う、
文明やテクノロジー、あるいは思想の「過剰さ」の始まりであるのは明らかでしょう。
エラリークイーンの小説に出てくる赤ん坊誘拐犯は、さらってきた乳児の顔を見やりながら、「坊や、これから、長いつらい人生が始まるんだよ」と語りかけるが、なんだか、この言葉は、これから生まれてくるすべての赤ん坊に語りかけられた言葉のように思えてくるのです。


何でこんなにわかりやすい記事が書けるんだろう。どうして紙面でこれが読めないんだろう。
国旗損傷やら個人情報保護法周りの話は皆さんもう既知であると思うので、昨日、次期事務次官を嘱望されていた財務省の高官が左遷されたニュースが流れたことでも書いて返歌としましょうか。高市政権とやり合ったそうです。
困るよ。困る。
アメリカのお陰で石油タンカーの問題はまだ解決していないし、円安はもう止められない。間違いなく飢餓が来る。
体制が酷い時は郊外の庭があれば何とか凌げるのはソ連のダーチャが証明したので、私は古典的にいきます。
植民地ってのは、主体が出来にくい分、問題過剰になりますね。
>「トランプも高市も、一時の例外や政治史上のコンテキストからの逸脱であるわけはなく、新しく需要が生じた社会が要求する選抜環境への均衡解で、ここから長くつづく道の出発点である」
たまらんなあ。