日本人の社会に本質的な問題は、
「改善能力が高すぎて、交換する能力が退化・消失してしまった」ことだと、英語論文には、よく出てくる。
現実に、日本企業についての分析を読むと、日本企業における生産性の向上は既存の企業内文化と「手続き」の「改善」によって起きていて、逆に
「ダメと判ったものを止めて、新しいものにリソースを移動させる」能力は非常に低い、と指摘されている。
日本にいたとき、よく
「日本人は、ひとりひとりの人間は、どうしたって他国の人間より聡明なのに、なんでまた、こんなデタラメな社会を作ってしまっているのだろう」と考えた。
子供のときに住んで、日本人の、おったまげるような頭の良さと、
聡明な人特有の言葉そのものが「光」であるような輝きは、英語人社会にはないもので、気持ちがよい人ばかりに囲まれて暮らしたが、社会全体としては、ゲゲゲで、これは住むのは無理ぽい、と子供頭でも判っていたように思います。
長じて、おとなになって、というのは、取りも直さず不純な人間になって、ついに日本語でまでくだらないことを言うようになったわしは、折しも登場した、プラットフォーム、後で振り返ると、
我を過ぐれば憂いの市(まち)に入り、
我を過ぐれば永遠の苦しみに入り、
我を過ぐれば滅ぼされた民の間に入る
衰退の地獄への門であったTwitterが始まって、外国語の習得に便利じゃんね、と軽い気持ちで始めたわしは、軽い気持ちでバカになってゆきます。
Duolingoにしておけばよかった。
Duolingo、全然、話せるようにならないけど。


