憲法という聖典を閉じる
10/2/2026
戦後日本人にとって憲法は法律であるよりも政治上道徳上の「聖典」として機能してきたのは、良く知られている。
特に憲法9条は「倫理的原理」として機能して日本社会の反戦規範を強固なものにしてきました。
第9条は単なる軍事規定ではなく、戦後の、特に早い時期においては、国家暴力の否定、国際協調の理想、戦争責任の倫理手的反省の象徴として、日本という「平和国家ブランド」形成をおおきく助けて、外交上のソフトパワーとして、国際紛争のたびに機能して、一例をあげればベトナム戦争においても、アメリカの強硬な派兵要求をはねのける力となって、日本の若者の生命を助けたことは、まだ歴史記憶として新しい部類に入る。
日本の若者の身代わりのようにしてベトナムに派遣されて、ヘルメットに大きく「グークス(←アジア人への蔑称です)を、ぶっ殺せ」と描いたアメリカ海兵隊兵士と肩を並べてベトナムの人たちを殺して歩いた韓国の若者たちの多くが、殺人に手を染めたおぞましさと、自分が殺される恐怖とに正気を保てず、戦時中の日本兵そっくりの集団強姦やベトナム市民の虐殺に荒れ狂って、本国に帰還後もPTSDに悩まされて社会復帰出来なかった現実を考えると、日本国憲法第9条の現実的有効性がよく判ります。
もう忘れられてしまっているが、朝鮮戦争から始まって、国際紛争のたびに、日本人の生命を救ってきたのは、憲法9条だった。
冷戦終結後、日本の意識は変わっていきます。
戦後80年が経って、1945年に15歳の少年兵だった「志願生徒」が、95歳になった計算の2025年になると、戦争は日本社会にとって「体験」ではなく「歴史」に変わって、言語上の観念操作によって理屈を作りやすくなってゆく。
存在しないはずの軍隊である「自衛隊」を、ちゃんと規定しなおすのは当たり前なのではないか、とコンテクストを持たない思考に馴染んだ若い世代ほど当然のように考えるようになっていきます。
あいだの現実経緯を、すっ飛ばしてしまえば、いかにももっともらしく聞こえる、この歴史事実の無知に基づく「屁理屈」は、今回の選挙中にも多く聞こえてくる意見でした。
高市早苗さんに圧倒的支持を与えることによって、日本は戦争準備に入ったのだと見なされている。


