静かなクリスマス
24/12/2025
いつから、ということはない。
12月に入って暫くすると、テイクアウェイを買いに出かけた料理店や、デリ、庭師のひとびと、家まわりの雨樋やドライブウェイのメンテナンスのひとびと、今年最後の用事で顔をあわせるひとたちと、どちらからともなく、
「今年は、どんなクリスマスですか?」
と、訊く。
今年は、quiet Christmasです、と述べている人たちが多いのは、
特に変わったことをしない、ムスリムや中国系の人たちであると、往々にして、「なにもしません」という意味です。
キリスト教、と分類される家であっても、最近は「みんなが集まるクリスマス」は、下火で、特にコロナパンデミックを境にして、まず自分たち家族だけでクリスマスを済ませて、実家や、兄弟姉妹の家は午後に訪問する、というふうになってきた。
それでも例えばニュージーランドでは、社会の習慣として、クリスマスと、それに続くボクシングデイは国民の祝日で、ここを起点として、二ヶ月は夏休みなので、ときどきブンチャーを食べに立ち寄る店の、ベトナム人のおばちゃんと話していたら、クリスマスは、三週間ゴールドコーストで過ごすから、しばらく店も休みだよ、と嬉しそうに話していた。
あ、こんなふうに厳しいときだけど、おばちゃんはショーバイがうまくいったんだな、と聴いていて、こちらも楽しくなります。
クリスマスカードをやりとりする習慣も、勤め人のひとびとは、日本の年賀状みたいなもので、相変わらずだが、富裕層ほど下火で、「余計なことはやらない」ダイエットしすぎのライフスタイルが、こんなところまで届いている。
逆に、あんまりたいしたことでもなかったのに、ずいぶん感謝してくれるアフリカ人のひとびとから、細かい字で、びっしり近況を書いたクリスマスカードが山のように届いたりして、なにがなし、やっぱりアフリカの時代だよね、とおもう。
白人至上主義なんていうが、「日本すごい」と同じで、叫べば叫ぶほど衰運は明らかというか、虚空に響く、絶滅寸前の狼の遠吠えみたいなもので、
相変わらず高校生の女の子たちなどは、深夜の埠頭で拳を空に突き上げて、
「ホワイトパワー!」などと叫んでいるが、最近は適用の強制力が厳しい
「白人の男は白人の女と結婚すべきだ」という若い女の人たちのあいだの、
「同調圧力」は厳しくても、ホワイトニングは一向に進まないようです。
クリスマスに述べることではないが、一言で言えば、
「うんざりしている」のだと言ってもよい。
むかしは人種差別的な考えを人前で披瀝してしまう人というのは、
人種が白人である以外、取り柄がないひとたちで、頼まれもしないのに自分が無能だと告白するなんて、どーしたんだ、と考えられたものだが、最近は、社会のエリートが堂々と、アジア人は醜い、黒人はナマケモノだ、と、聴いていて、音声チャンネルが壊れているのではないか、と思うようなことをいう。
イエス様は人種差別などしなかった、と述べるのは良いが、
イエス様って、だって、白人じゃないんじゃないの?
とほんとうのことを述べると、次からは、クリスマスホリデーに、その家には招かれません。
皮肉なもので、わしに輪をかけて、というか、数層倍も人嫌いのモニさんは、文字通り世界中のひとたちからクリスマスホリデーには招待されるが、
チョー小さい声でいうと、招待状の封筒を、開封さえしない。
「ガメ、誰かの招待を受けたいか?」と一応は聴いて、こちらは人嫌いと別の理由の、「めんどくさい」という理由で人に会いたがらない旦那ちゃんが、誰とも会わずに、妻たる自分の身体に顔をくっつけて、すべすべすりすりをしていたいだけなのを確認すると、じゃあ、海が凪いだら、ちょっと遠くまで行こうか、と述べて、食料品をおおめに用意するくらいで終わっている。
十数年前の日本語練習ブログを読むだけでも、ずいぶんクリスマスの過ごし方は変わったよなあー、と思って感心します。
もともとクリスマスは、例えば家庭内暴力がピークを迎える日で、警察人にとっては、「一年で最も忙しい日」でもあったが、かつては、少なくともイメージとしては笑い声が響く、おだやかな華やかさに満ちた日だったが、一年の幸福を象徴する日である「ふり」をするのさえ難しくなったのが2025年だった。
常に自分の気持ちに正直なモニさんが、当初の「パリでのクリスマス」案を断って、実家にショックを与えて、クリスマスなのに、という溜息が聞こえてきそうな反応を引き起こしたりするのも、モニならばそうだろう、と納得がいくような一年でした。
すべての「善いものへの努力」は敗北して、自分たちにとっては悪としかおもえないものが、世界中の至るところで勝利した。
投資家の世界でも、これは日本語で書いているので、聴いてびっくりしてしまうナイーブな人たちもいるだろうが、要するに本質は単なるトランプ=クシュナー・ファミリーの「グランド・リゾート開発計画」にしか過ぎない、ガザの虐殺を止めようとする欧州投資家グループの必死の努力も、あっさり蹴散らされて、アメリカという悪しき政治権力と結びついたビリオンダラーというものが、どれほどの力を持っているのか、思い知らされただけだった。
一方で、日本語では「まるで陰謀説のようだ」という反応を見て、無意味なのを悟って、あれ以上書くのはやめてしまったが、オーソリタリアン・スタックの計画は、殆どなんの抵抗もなく着々と進んで、民主制の概念どころか、
ありとあらゆる深度を伴った人間の近代の思惟は、あっさりテクノロジーと政治権力を僭主政的に手に入れたオカネ結びついたスタックの支配に破壊される、というよりは「無視」されて、人間がテクノロジーの手足にしか過ぎなくなる世界が、すぐ眼の前に迫っている。
「上位0.1%にも入れない人間は、もともと人間として生きる価値などないのだ」と彼らはおおっぴらに述べる。
わしのようなテキトー人は、「あんたらは本を読まない人間として読書の神の天罰におののくことになるであろう」などと冗談を言って揶揄うが、
ほんとうは、冗談を言っている場合ではなくて、わし友たちと手を組んでマジメに戦わねばならないのは判っています。
しかし、そのための準備には、時間がいる。
その時間が経つあいだには、刻々と犠牲が出る。
この状態で、気持ちが明るいままで、心からクリスマスを祝えてしまうほどの演技力は、どうやらテキトー人間わしといえど、無いようです。
2025年は、どんな年だったか。
左派と右派という旧座標系で政治世界を考えることがいまの世界では無効なのは既知だったが、いよいよ、そういう機能しない古い認識は有害なだけであることが明らかになった。
日本では、そうだなあ、伊藤詩織さんに対する左派の攻撃を考えれば判りやすいかもしれません。
「人間性」という軸を持たない左派は有害な全体主義に陥りやすい。
自称中道左派、その実体は、過激左翼と内輪で揶揄われるジャシンダ・アーダーンが、生身の人間として、現実政治のなかで傷つき、あんまりふざけて陳腐化表現を使ってはいけないが「ついに弾尽き刀折れて」政治世界から引退するまでに学んだことは「人間性こそが座標でなければならない」ということで「人間性を持たない、empathyのないすべての政治思考は有害でしかない」ということでした。
英語保守人は、これをUK的社会主義がリバタリアンに叩きつけた宣言だと受け取ったが、実際には、左派人そのものにも向けられた言葉だったのは、周りの人には、当初から、よく判っていたようです。
ジャシンダはんは、きっと、世界の現実を踏まえた政治思想家として、きっと戻ってくるはずの人だが、置き土産として置いていった「人間性をすべてと考える」政治家としての言葉の数々は、NZ日めくりカレンダーにしたいくらいで、と、自分でもこういうときに冗談を挟まずにはいられない性格はどうにかならないのかと思うが、国民に無料で配れば、NZも幾分かは良い国になるかもしれない。
トランプと、JDヴァンスを通じて、その背後から、刻々と支配力を伸ばすオーソリタリアン・スタックが止まらなければ、ウクライナは様々な政治上の罠に足を取られて、国内問題で体力を落とし、国際信用を失って、ロシアの実質的な勝利に終わるでしょう。
そこからプーチンが体力を回復するのに五年だろうか。
彼の宿願である、最終目的地をUKとする欧州侵攻に抵抗する力は、いまの欧州にはない。
インドではパキスタン国境の「世界の火薬庫」では、モディに支えられたヒンドゥー原理主義の民兵が一国の軍隊を上回るほど育って、通常の歴史上の紛争とは逆の、正規軍同士の衝突から民間(宗教上)の戦争になる予兆が見えている、とインド知識人たちが必死に警告している。
中東、アフリカでの紛争は、言うに及ばず。
そして東アジアでは、経済事情と、放っておいても自分で失策を重ねて、マスメディア式の言い方をすればオウンゴールで、着々と失点を積み上げて、すでに世界パワーの中心を滑り落ちて、しかも、まだまだ自滅を進めそうなトランプアメリカの自爆によって生まれる地歩の有利さを天秤にかけて、武力侵攻を猶予して、出来れば調略で、と忍耐を発揮している習近平の台湾併合は、あれほど中国の武力侵攻をあり得ないと述べていた台湾人さえ、
家族を世界中にばらまいて、拠点をつくって、
「もう時間の問題だ」と述べる過程に入っている、
つまり、再生時間が30%くらいに遅くなっているだけで、世界大戦は、実質すでに始まっていると看做すことができる。
後で振り返れば、このクリスマスは、「世界大戦に入った世界の初めのクリスマス」ということになるのかも知れません。


