SNSによるコンテクストの破壊について
31/1/2026
SNSによる民主社会の破壊は、主にコンテクストの破壊によっている。
例を挙げる。
発言をクロッピング(切り抜き)されて、恣意的刺激的な部分だけを拡散させて、皮肉や反語表現を述べると、それを「本人の主張」として、拡大拡散させて、「こいつはこんな酷い奴だ」という自分への個人攻撃をするために使われたおぼえが有る人は多いでしょう。
自分の経験でいうと、日本の左派やリベラル(←日本では区別がやや曖昧なようだけど)は、これを集団で示し合わせて行うのが得意で、殆ど、その技量のあるなしで、「左」か「右」かが決まっているところがある。
…というのは、まさか、冗談ですけどね。
背景には例えば「X」のアルゴリズムは、これはTwitterの時代からでXでの一連の改悪とは関係がないとも言えるが、もともと「前後関係」というものは概念としてもっていなくて、インプレッションを最大限に優先させるアルゴリズムがあって、自動では行われないために、コンテクストを復元するという「行動コスト」が読む側にかかって、99%の人は、やらないで終わる。
その結果、意味上のコンテクストは、完全に破壊されて、一顧だにされなくなってしまっている。
日本とアメリカでSNSの破壊力が最もおおきかったのは、もともとこのふたつの社会では「コンテクスト」の概念が、それぞれの理由で薄く、そのせいがおおきかったでしょう。
もともとSNSは、文字数制限を持つのがふつうで、当初は140文字で、この期間にtwitter文化が形成されたことがおおきかった。
Jack Dorceyの初めの目論見とは異なって、twitterが「シリアスな議論」の場になりはじめたからで、名前通り小鳥たちが集まって他愛もない話をぺちゃくちゃしゃべる場所を想定していたJack Dorcey自身は、意外な成り行きに、かなりうろたえていた。
他にも、例えば時間軸の破壊、ということがある。
十年前の発言や投稿が悪意によって拾われて、まったく異なる状況の光のもとに置かれて、炎上する。
ちょっと前に、70年代初頭の映画である「ダーティハリー」を、2025年の#MeToo的フェミニズムの観点から取り上げて映画のMachismoを攻撃する、果ては「クリント・イーストウッドは許せない」と盛り上がっているひとびとがいたが、これなどは、案外SNS文化で育った断片思考の結果だったのかも知れません。
過去の基準を現在に、そのままもってこられて、
「大岡って、英明な為政者ということになってるけど、頭のてっぺんをカミソリで剃って、束ねた後ろ髪をその上に載っけるなんてHENTAIじゃんね」と言われても、大岡忠相だって困るに違いないが、SNSは時間コンテキスト上は、本質的に、そういうことを許容する。
それが現実社会に及んでいるのが、いまの世界です。
「X」では特に、政府の公式表明に至るまで、英語を妙にぞんざいな日本語にしてしまう例は枚挙に暇がないくらい存在して、
We would appreciate it if you could ensure compliance with the guidelines.
を「ちゃんとルール守ってね」と訳してしまうくらいはお茶の子さいさいで、さいさいされて、
It is difficult to determine the full impact at this time.
が、「正直、よく判らない」にされるくらいは、SNSでは日常になっている。
一国の首相の発言が、「おれは、そうおもわないんだけどね」というような、
「おれよう、それでよう」口調で紹介されるくらいのことは、いまの「X」ではあたりまえで、そういうアカウントは大変人気があるのでもあります。
あるいは、自分の普段の世界認識の態度を反映してか、
The proposal raises several important questions.
が、
「いろいろ、つっこみどころ満載ですね」に変貌するくらいは、下手をすると現代日本語では機知のうちに含まれているように見える。
そのうえに、もともとはInstagramやTikTokの発明だが、過激/過剰な解釈や表現ほど頻繁にタイムラインに登場して、穏健な解説や意見はラインの奥深くに埋もれてしまうアルゴリズムが、経営上有利と判断されて、ほぼ全社が採用したというバックステージのアルゴリズムの改変がある。
現在、最もこの弊害がひどいのは言うまでもなくイーロン・マスク買収後の
「X」で、この社主はアルゴリズムを自分の政治的野望の達成にあわせて改変したと考えられていて、その結果、アメリカでは、およそまともな「リベラル」は、Xから総退陣することになっていったのは記憶に新しい。
つまり、現在のSNSは、コンテクストの破壊から一歩すすんで、コンテクストそのものを投稿者ではなく配信システムが決めているわけで、投稿者は、自分が意図しないコンテクストを形成するための「材料」を提供しているに過ぎません。
この辺で、日本語世界の問題にしぼる。
何度も触れた丸山眞男の「タコツボ・ササラ論」を持ち出すまでもなく、日本は、発足からいきなり強力な軍事国家となることに集中した社会づくりが「近代」の代替となった特殊な国情のせいで、十分に時間をかけて検討して西洋文化/文明を輸入・吸収するというわけにはいかなかった。
「遊牧民」との接触が持てない農耕文化で、その必然的な結果として独自の文明を形成できずに、条件/事情が同じ日本同様、模倣によって、他文明の周縁として文明を形成した欧州と、日本の違いは、日本の模倣・吸収が性急で、せっかちであったのに対して、欧州は、十分すぎるほど長い時間が与えられていたからでしょう。
(遊牧とオリジナルな文明の成立の因果関係については、いずれ、別稿を立てて書きまする)
日本近代では輸入思想や輸入文化が、多くの場合、「根無し草」で、一時の意匠に終わることが多かったのは、すでに明治時代から指摘されてきている。日本語に、唖然とするほど死語が多いことの原因にもなっている。
時間/歴史的にも社会空間的にもササラをなすことを許されなかった日本社会のタコツボ文化は、SNSと大変に良いケミストリを持っていたが、それは同時に、ゆく言葉の流れは絶えずして、しかも、もとの文脈にあらず。淀みに浮かぶ概念は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、と述べた、モバイル鴨さんの言うとおりで、インターネットが登場する遙か以前から、コンテクストという概念そのものへの理解も怪しかった。
そこにインターネットというコンテクストの破壊が主な「論戦」の武器となる媒体があらわれ、あまつさえ、SNSというコンテクスト破壊に特化した様式が一般化されて、本来、言語と現実を結びつける重大な役割を担っていたコンテクストそのものを木っ端微塵に粉砕してしまう。
その結果は、日本社会では、至る所で社会の崩壊として現れて、政治においても、特に安倍政権が登場してからは、世界に有名な、海外からは激しく非難された「福島はアンダーコントロール」に始まって、
自分でも現実とは遠く隔たったことを述べようとしている、という自覚があったのでしょう「丁寧な説明」と口にするたびに、森友学園を巡る財務省決裁文書改ざんや、加計学園問題での官邸関与疑惑などで見られる現実隠匿のレトリックで、「真摯な政治」というのは断裂したコンテクストの狭間で逃げ場がなくなった政府職員を自殺に追い込むことを意味していた。
あるいは外交問題では、台湾を侵略によって植民地化したのは日本で、その植民地の「所有権」を植民地宗主国の最低の義務である「誰に返上するか」を言葉を濁して確定して述べなかったために中国と対立して、話がこじれているのに、こうした歴史的経緯や戦後処理の曖昧さを顧みることなく、高市早苗首相が台湾有事に際して台湾側への軍事的関与を示唆する発言を行ったことは、中国側には自国の核心的利益への介入意思の表明と受け取られ、強い反発を招く結果となった。
一般に、これまで見ていて、高市早苗首相は、自分から見た、その場その場の支持者の顔色にあわせて「タコツボ発言」を繰り返す危険な傾向があるが、彼らの古典を読めば、どんな人でも判るはずで、たいへん失礼な言い草で、一国の首相が例えば中国古典for Dummiesな「十八史略」すら読んでないなどとは実際にはあり得ないだろうが、もしかして読んでなかったりして、と非礼なことを考えてしまうほど、中国の人というのが全身これコンテクストの塊というか、お互いに言語を使うほどの生物ならばコンテクスト上でしか言葉を使わない、という「文明人の条件」が徹底している民族であることが判っていない。
近代中国の政治スローガンに話を限っても、「以史為鑑」(歴史を鏡とせよ)と述べて、批林批孔、尊法反儒、常にコンテキストの上に立たないと現実と言語が結びつかず、コンテキストが理解できない人間は、無知で愚かな未開の人間で、話すに足らない、という態度で一貫している。
それをキャピキャピなタコツボ対応で外交演説を述べても、国内には通用しても、中国としては、「この愚か者たちには力しかない」と思わせるのに十分で、台湾のひとびとだけに限っても、日本の首相の、稀代のアホ男で有名なトランプでさえ口にしなかった、たった一言で、危機にさらされることになった。
コンテキストが理解できない人間というのは、そういうもので、台湾政府の公式の「感謝する」を、字面通り、受け取ってしまったのでしょうが。
見たかぎりでは日本の国民は、自分たちが選んだ首相ほど愚かではないようですが、それも日本語SNSから得た印象なので、現実か、あるいはアルゴリズムが見せる幻影なのか。
結論は、いつもと同じなので、いくらなんでもしつこすぎて自分でも書く気がしないが、ササラでないものは存在しない、と理解することです。
言葉を変えれば、日本語をコンテキスト上の言語に立て直すしかない。
英語世界でもIT世界の人間は「たった一言のケンカで、十年の付き合いと信頼が覆る」という「人種的特徴」のせいで評判が悪い、というか、信用がない。
ITのどこかにコンテキストを拒絶して刹那に生きるところがあるのかも知れない、いかに困難でも、このITの暗黒面を克服しなければ、言語が崩壊し、そうなれば、世界そのものが破滅するのは時間の問題で、
言語の再建が緊急の課題であることは、日本語も例外ではないようです。


毎日寝る前に、LED付きKindleで陳舜臣さんの小説十八史略や様々な歴史小説を本当に少しずつ読んでいます。小説十八史を読む速度を早めることにします。
私はSNSが苦手で、昨年、始めた頃にナリスマシ被害が数回、ストーカー被害もあり、Xは個人名を出さず農作業記録として利用しだした。その後の政治状況悪化で、遅まきながら、情報収集目的に変化していった。でもまた、その過程で個人を特定しようとされている兆候が見えて用心させられてるのが現状。アルゴリズムで提供される情報にも嫌気がさしている。結局、関心の幅が意図的に狭められる。
加えて私の個性が、対面でも会話が苦手。顔の見えないSNSでは感情に任せて、相手への礼節を欠いて、言葉を発してしまうので、これまた用心と、神経症のループにハマる。
SNSによるコンテクスト=文脈?の破壊は、私もやっちまった〜と内心冷や汗をかくことは、最近もあった。相手にごめんなさいと謝りたいところだか、ひゃ〜、それに👍がついていた😂
タコツボとササラ。小学生からのオベンキョ〜にも影響は出ていると思う。ベースが脆弱で教科書勉強になるから、教員にも授業にも魅力がなくて知的好奇心がプッツンさせられる。江戸時代の寺子屋を知ってる訳ではないが、アッチの方がよっぽど面白かっただろうなぁ〜と、私も髪を結いたくなる😆
昭和50年代の英語教育は和訳することが主流だった。聴き取り苦手、会話はビビる。一人机に向かって直訳する時だけ分かった気になる日々。上手く意訳できる子は褒められた。
経世済民がいつの間にか、つづまって、経済になり、今や庶民貧民は置いてきぼり、だなんてタレか知ルラン。
で、コンテクストの破壊💥でした。
SNSは、よく考えずに書けてしまい、ポチっと押すと、どこかに飛んでいってしまい、拡散目的だからあっというまに広まって、『あっごめんなさい、そんなつもりじゃないです』と次の対話にも繋がらないのも欠点かな、と。
昔、手紙は夜には書くな、という話があった。中身が暗くなって相手が心配するからよしなさい、と。
ところで、我が国ソーリの外交音痴、コンテクスト破壊について。専門家は当初から警告してる人もいた。でもマスコミが事実としても伝えないし、ましてやコンテクストに位置づけた報道もしない。愚民化政策と思いたくないけど、そーなんだろ〜なぁと😂
彼女ソーリのことはよく知らないけど、多分、私と一緒で、小学校で脱脂粉乳を飲んだ世代。アメリカから贈られて。だから何?というと、センセーにでもなるか、センセーにしかなれない、デモシカ教師はもうちょっと時代が前だったか、だけど、知的貧困と歴史修正主義の文脈から、わざとやってるな、と理解している。その上で、白紙委任選挙を迫られてるから、たまったもんじゃない、のです。